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一語一会・私が出会った「昭和の怪物」

山本五十六と戦争/14 山本の死をめぐる海軍の隠蔽工作=保阪正康

大反響「連載」再開!

 昭和の時代に名を刻んだ怪物的存在を、現代史研究の第一人者が、新たな問題意識で論じ直す好評連載。大反響の「山本五十六と戦争」の第14回は、引き続き山本の最期にこだわる。国民的英雄の死をどう伝えるかについて、海軍が責任逃れのような「隠蔽工作」をしていたというのだ。(一部敬称略)

    国民的英雄の死は何をもたらしたか?

     山本五十六が撃墜死だったのか、それとも撃墜時は生存していたのか、を追いかけていると、その真相そのものが曖昧にされていることに気づく。太平洋戦争時の日本海軍は、組織自体かなりの疲弊状態だったと言っていいのではないかと思う。その点を炙(あぶ)りださずに、この曖昧さを解明することはできない。

     今回は前回までの流れを整理したうえで、さらにこの曖昧さを検証しようと思う。これまで語ってきたように、山本五十六の撃墜時の様子については、二つの報告書と一つの証言がある。二つの報告書とは当時海軍省の副官によって密(ひそ)かにまとめられた山本元帥の戦死から国葬までの経緯を綴(つづ)った関係書類である。むろんこれは公表されていない。私はある官庁の研究者から聞いて確かめた。この内容の一部についてはこの連載でも紹介してきた。そしてもう一つは陸軍の軍医である蜷川親博(ちかひろ)が個人的にまとめた検死記録である。これは報告書にまとめられたものではないが(実はまとめられていたのかもしれないが、委細は不明である)、蜷川のノートに書かれていた。

     つけ加えれば蜷川は、ブーゲンビル島に駐屯する部隊の軍医で、山本の遺体発見を聞き、現場での確認を求められた。しかしその後、蜷川は激戦地に送られ、死を強要される形になっている。そのノートは蜷川の実弟により吟味、検証され、単行本として刊行されている。刊行されたのは、昭和五十(一九七五)年である。この書の内容についてはこの連載でも触れている。むろん、この蜷川軍医の検死記録も公的に発表されたものではない。しかし、山本の撃墜時の様子を確かめるには重要な書である。

    最大の国家機密となった「山本の死」

     さてこの二つの報告書とは別に、撃墜された現場にたまたま最初に入った陸軍の部隊がある。この部隊はブーゲンビル島内で道路の建設を続けていたのだが、友軍機が墜落したというので捜索にあたった。そして現場にたどり着いたのである。この部隊は第六師団第二十三連隊所属の歩兵砲中隊長の浜砂孟栄(みつよし)少尉の一隊である。その内容については、浜砂が地元紙(宮崎県)に語った証言を本欄でもすでに紹介している。あえて言えば、浜砂を求めて私が戦友会のいくつかを追いかけている時に、ある海軍の元軍人がまったく未知の私に電話をかけてきて、「君は山本さんの最期を調べているのかね」と言い、すでに定着している説を変えるようなことがあってはならないと補足した。この軍人は佐官として海軍省に身を置いていた人物だが、山本さんが墜落時に生きていたとの俗説は当時からあったとも付け加えていた。海軍としては、陸軍に山本五十六の死を語られることに不快感を持っていることも分かった。

     山本五十六の死について、公式には大本営発表以外に事実は明かされていない。このことはある事実を示している。あえて二点を挙げておこう。

    一、山本が生存していたとするなら、なぜ、救援隊を出さなかったのかが海軍の指導部には問われることになる。それで何としても死んだことにしたい、との共通の意思があった。その理由は単に彼らの保身だけではなく、国民に強い復讐(ふくしゅう)心を起こさせるという目的の計算があった。

    二、天皇に報告する時に、生存していたとなれば、なぜ救援に向かわないのかとの御下問がある。その答えに窮するのは目に見えている。そのためには何としても撃墜死で押し通さなければならなかった。

     この二点のほかに、私は山本五十六と軍中央との間に信頼関係がまったくなかったことも指摘できるように思う。軍中央というのは軍令部の永野修身(おさみ)や福留繁、富岡定俊ら、そして海軍省の嶋田繁太郎らは山本に対してかなり警戒、ないし不快の念を隠していなかった。山本が死ぬと同時に、秘密の漏洩(ろうえい)を防ぐのを名目に山本の自宅から全ての資料や私信類も持ち去ったのは、そのような警戒心のためであろう。山本の意思と称して海軍内での自分たちへの反感が広まるのを何よりも恐れたことが分かってくるのだ。

     しかし前述の二点のうち、もっとも重要なのは国民への影響である。まず海軍の指導部は、山本五十六の死を最大の国家機密とした。この真相について些(いささ)かでも耳にしているものは全て東京周辺の部隊に移動させ、常時憲兵隊の監視付きとなった。その後は浜砂をはじめ、捜索隊の隊員たちは激戦地に送られ、死を要求されたのである。陸軍もまた同様で、激戦地に送られている。日本の軍事指導者は戦地を処刑場に使っていたのである。これでは激戦地の兵士たちの士気を著しく下げることになるだろう、などと考えてもいなかったのだ。山本の死に近づいた者は、全て死を強要されたといってよかった。

     山本の死についての考察とは別に、昭和十八年前半期までの戦争の状況を見ていくと、陸軍と海軍の間に齟齬(そご)をきたし、戦争それ自体が極めて不安定な状態の中で戦われている。まず山本の戦死を通じて陸軍と海軍の間に亀裂が生まれていた。この亀裂は、海軍に対する陸軍側の反発という形で表面化した。具体的には陸軍を牛耳っている東條英機がすさまじい怒りを海軍に示した。といってもその感情を表には出していない。いわゆる東條メモは海軍に対する不平、不満をそれこそ際限なく書きこんでいたのである。開戦初期の赫々(かくかく)たる戦果に幻惑されてなんらの対応もしないというのであった。そして陸海の一致を名目にひたすら陸軍に協力を求めるというのであった。

     東條のこの怒りは、海軍の戦略や戦争の内実に不満を持っているのではなく、陸軍に一方的に協力を求めるといった得手勝手な批判であった。それは海軍が赫々たる戦果を上げた時に陸軍の協力があったのにそういう感情をまったく示さないことへの苛立(いらだ)ちであった。開戦初期になんらの対応も考えていなかったのは東條ら陸軍の指導者もまた、まったく同じであったのである。この怒りはよく分析すると、山本五十六への不信でもあった。東條の本音は、海軍といっても山本を指していて、山本の戦略に振り回されていることに不快感を示していたのである。

     山本が戦死した時に、東條は追憶の和歌を詠んでいる。

     君逝きみにしむ責の重きかな されどやみなん勝てやむへき

     東條は山本が国民的な英雄であることを知っていた。山本が戦死したら、国民の士気が下がってしまうことを案じていて、一切の責任が自らにかかってくることを不安に思っていたのであった。このことは、東條が戦時下で山本に匹敵する人気を得ていたかどうかに自信を持っていないことを裏づけていた。東條に限らず戦時指導者は、戦争を進める上でのカリスマ性を持っていないことを自覚していたのである。

    山本の意思に反した「海相の挨拶」

     事実経過を追うことにするが、山本の国葬は昭和十八年六月五日に行われた。ここに至る経緯を見ると、ある事実に気づく。日本側は国民の士気を下げないように山本の名が新聞に出ないようにしつつ、国民の意識から少しずつ消していった。同時にこの撃墜死が暗号の解読によるのか否か、注意深くアメリカの戦果を放送するラジオの内容に注目していた。するとアメリカ側が山本の死を戦果として発表しないことに気づいた。そこで日本側は、アメリカはこの飛行機が山本五十六の乗った機だと分からずに攻撃してきたのだろうと判断した。偶発的に起こった戦闘と考えたのである。それで山本の戦死を国民に告げなかったのである。しかし言うまでもなく、アメリカは山本を討ったことには知らぬ顔をしていたのであった。こうした点でも日本はアメリカに後れをとっていた。

     日比谷公園に設けられた斎場には日本の各界の指導者が集まり、この戦争のシンボルとなっている軍人の死を悼んだ。一般市民も含め数万人が参列した。山本の死によって戦意が落ちてはならないとの指導者たちの不安は逆に強まった。この日、嶋田海軍大臣は、

    「連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将は偶々(たまたま)本年四月、最前線において全艦隊の作戦指導中に敵機と交戦し、飛行機上において壮烈なる戦死をとげられたのでありますが、この間元帥は終始泰然自若、軍刀の柄を堅く握りながら、最後の瞬間迄(まで)、主将として誠に崇厳(すうげん)なる態度を持しておられました」

     と、讃(たた)えた。先に紹介した報告書の中の一節(軍刀の柄を堅く握りながら、など)を引用しているように見えるのは、皮肉といえば皮肉である。山本は死しても日本の武人としての鑑(かがみ)であると強調していた。国民には、山本の遺志を継げと呼びかけているのであった。だがこうした挨拶(あいさつ)は、山本の本来の意思に反しているのも当然であった。

     山本の本心は、むしろこのような嶋田の言とはまったく別な次元にあった。

     山本の気持ちは短期決戦というこの戦争の目的を完遂しなければ、死ぬに死ねない心境にあったはずだ。それなのに現実は全て逆に動いている。つまり、日本はより一層長期戦に引き込まれ、抜き差しならない状況になっている。これでは短期決戦からますます現実は離れていくことになる。山本の予想とはまったくかけ離れた状態になっていく。山本の心中には、現実に責任を追う段階はとうに過ぎているとの絶望があったとしても不思議ではなかった。これまで幾人かの論者が記述していたのだが、山本は死に場所を求めていたというのが本心であろう。

    山本が前線視察に赴いた本心

     山本は今次の戦争のプロセスに一切の責任が持てないとの判断のもと、自ら前線視察に赴いたというのが真実の姿であったろう。制空権も十分に確保していない状態で、最高指揮官が出ていくというのは明らかに自殺行為であった。山本はアメリカの情報機関が当然自らの動きを傍受するであろうことは容易に見抜いていたであろう。それを知っての前線視察と言っていいのではなかったか。

     このような見方に一定の根拠を与えるのは、やはり山本と共に前線視察に赴いて撃墜されたが、辛うじて一命をとりとめた連合艦隊の参謀長、宇垣纏(まとめ)の残した証言にも見られる。

     前述の海軍省副官の残した山本の撃墜から葬儀までを記録した書類とじで、宇垣は「長官の態度には、(日ごろとは異なる)変化があり」と証言していた。具体的には、と宇垣は話を進め、自ら備品を整理したり、依頼されていた揮毫(きごう)は全て書き終え、なにやら多くの親書も書き残していたというのであった。

     さらに山本は、信頼する部下にはメッセージを残した節もあるが、それは決して無理をせぬように、との内容であったという。次の時代を託する思いがあったのかもしれない。山本のこうした動きは、自らの作戦で戦死した軍人たちへのお詫(わ)びの心積もりもあったといっていいのかもしれない。

     山本の戦死に至るまでの心の動きや感情、さらには歴史観から人間観までを含めてみると、ある光景を想像できるのではないか。私は次のような光景を思い浮かべてしまう。

     撃墜された山本の一番機は、煙をあげて落ちていく。衝突時、機体は本体と翼が寸断される。海軍省の副官のまとめた書類とじによると、本体は焼失しているが、その焼失部分に搭乗員たちの焼死体がある。そこから投げ出された死体が三つある。山本と軍医長の高田六郎少将、そしてもう一人が航空参謀の樋端(といばな)久利雄中佐である。山本は座席のクッションに身を乗せて横たわっている。その一メートル横に高田が伏せた状態である。そこから三メートルほど離れて樋端が、やはり伏せた状態である。

     高田や樋端は、墜落時は存命していて、山本に近付こうとしている。しかし、途中で命は尽きたのだ。山本は彼らよりしばらくは存命していたのではないか。山本は、二人に何かを伝えたように、私には思える。息も絶え絶えの中で、彼らはどのような会話を交わしたのだろうか。むろんこれ以上はノンフィクションは立ち入るべきではない。それを承知で私は、蜷川親正(ちかまさ)『山本五十六の最期』などを参考に、山本の言葉を考えたくなるのだ。

    (以下次号)

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