
ビートルズの全曲リマスター盤がなかなかの売れ行きという。ワンセットのボックスを東京・神田のCDショップで品切れ寸前にかろうじて買い求め、入荷待ちで気をもむことなくすんだ。影を長く落とす秋日の街をボックス抱えて歩きながら考えた。解散してはや来年で40年(!)、よくまあ手を変え品を変え、なぜこうもビートルズは売れ続けるのか。その曲は1960年代の7年間程度、メンバーが全員20代のうちに作ったものだ。音楽の英才教育を受けたわけではないし、その血筋でもない。ろくに譜面を読んだり書けたりもしなかったという。そして、それを気にも掛けなかったに違いない。おそらく、そこが彼らの魅力の尽きせぬ源泉なのだ。
無数のエピソードがあるが、私が特に好きなのを三つ挙げたい。
一つ。名マネジャーとの偶然の出会い。ご存じブライアン・エプスタインは当時27歳、英国の港町リバプールで有名なレコードショップを営んでいた。ある日客からビートルズのレコードを尋ねられ、初めてそんなバンドがこの街にいることを知った。聞き過ごしていればそれっきりだったろうが、運命の女神はやはり積極的行動を起こした方にほほ笑むようだ。彼は興味を抱き、ひとつそいつを見てやろうとライブハウス「キャヴァン・クラブ」に出かけたのである。1961年11月9日のことだ。
これはさまざまに語り伝えられている。ここはマーク・ハーツガード著『ビートルズ』(湯川れい子訳、角川春樹事務所)から引くと、生前のエプスタインはこう述懐した。
「ステージの上の彼らは、何とも形容しがたい感じで......きちんとしたふうでもなく、清潔というわけでもなかった。演奏しながら煙草は喫うし、食べるし、喋るし、ふざけて互いに叩きあったりするし。客席に背中を向けたり、怒鳴ったり、内輪のジョークで笑ったりしていた。だが、確かにすごく盛り上がるんだ。人を惹きつける何かを放っているようだった。私は彼らに参ってしまった」
彼は通い詰めるようになり、やがてマネジャーとなった。彼はビートルズを行儀よくさせ、ルーズで無秩序なステージはやめさせた。おそろいのスーツ姿のビートルズなんてそれまで街のファンは想像もしなかっただろうが、エプスタインはビジネスの経験を生かし、この野放図な若者たちをどう売り込み成功させるか、本気で心を砕いた。
彼がいなければ、ビートルズはまったく違った登場の仕方をしたか、あるいはそのまま地下倉庫を改造したライブハウスで埋もれていたかもしれない。後年、ビートルズがステージをやめ、スタジオにこもって曲づくりに専念するようになるとその存在は前ほど注目されなくなった。67年に急死する。薬使用の事故といわれる。

さて気に入り逸話の二つ目。それはビートルズが見事にオーディションに落ちたという話である。若者たちよ、試験に一度や二度しくじったからといってしょげるんじゃない。あのビートルズも落第しているのだ。
レコード会社で最初にビートルズに接したのはデッカだった。ロンドンでオーディションを受けることになり、1961年の大みそか、彼らは大雪の中を車で10時間かけて行った。そして元日、デッカ社のスタジオに入った。ハンター・デヴィス著『ビートルズ』(小笠原豊樹・中田耕治訳、草思社)によると、デッカのスタッフがなかなか現れないのでエプスタインは「いいかげんに扱われている」という気がしてジリジリしたという。
いよいよ演奏の段になった。リバプールから運んできた傷だらけの古アンプをデッカの係員が見て「片づけてくれ」と言った。デッカのアンプを使い、「夕日に赤い帆」などスタンダードナンバーをやった。うまくいったと思ってリバプールで朗報を待ったが、なかなか来ない。やっと3月になって「ビートルズのレコードは出さない」という決定を知らされた。デヴィスの『ビートルズ』でエプスタインはその時のやりとりをこう語っている。
「サウンドが気に入らないという。ギターのグループはもう流行遅れだと言われた。ぼくは、この連中はエルヴィス・プレスリー以上の大物になると信じています、と言ってやった」。その通りになるのだが、このころのビートルズはどのレコード会社にもうまく売り込めず、ジョージ・マーチンという名プロデューサーに見いだされるまで時間が必要だった。その間、彼らは腐ることなく精力的にライブを続け、地元では圧倒的な人気を得ていた。
初期ビートルズの演奏は今聴いても新鮮だ。わかってもらえなくても、自分たちがやりたいようにロックンロールをやる。これを通したのである。落第生諸君、かくあるべし。大いに自信を持て。それにしてもビートルズを逃したレコード会社は残念だったろう。
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三つ目。1963年11月4日。アルバムも2枚出し、イギリス国内ではトップに数えられるようになったころだ。ビートルズは、一流の芸能人たちが王室のお歴々の前で演じる「ロイヤル・バラエティー・ショー」に出演した。ロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ劇場である。当時の映像を見ると、ジョン・レノンは最後のナンバーである3曲目の「ツイスト・アンド・シャウト」の前にちょっといたずらっぽい笑みを見せ(ちょっと迷いもあったかもしれない)、そしてマイクに向かって言った。
「次の曲では、安い席の方々は手をたたいてください。あとの方々はご自分の宝石をチャラチャラと鳴らしてください」
会場はどっとわき、新聞も一斉に取り上げた。こうした権威に対する風刺、皮肉はジョンの真骨頂だったし、ビートルズの特徴でもあった。それは曲作りにも表れている。
彼らの生まれ育ったリバプールは、古来対岸のアイルランドと密接な交流があり、その血筋が多い。司馬遼太郎は『街道をゆく』シリーズの『愛蘭土紀行』(朝日新聞社)で、ビートルズの発言とアイルランド人に流れる風刺の血に触れている。アイルランド人が吐き出すウイットやユーモアはこんなふうだという。
<......相手はしばらく考えてから痛烈な皮肉もしくは揶揄(やゆ)であることに気づく。相手としては決して大笑いできず、といって怒りもできずに、一瞬棒立ちになる>
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来年(2010年)は「解散40周年」。またあの手この手と「ビートルズ産業」は活況を呈するのだろう。これだけ年月を経ても彼らが特定の世代の「思い出の箱」に収まらず、次々に新しい世代をとらえていく。そのことを論じれば、それだけで一つの学問分野が成立しそうだが、「そんな退屈なことしてどうするんだい。ヒマだね」と天上のジョンは皮肉るに違いない。 (専門編集委員)