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ALL FOR 2020

東京へ ともに歩む

毎日新聞

青島健太氏=東京都港区で2019年5月20日午後1時55分、宮本明登撮影

東京・わたし

多様性と新しい価値観 ジャーナリスト・青島健太さんが考える東京五輪の意味

 活字、テレビ、講演など、あらゆるメディアを通じてスポーツの魅力、醍醐味(だいごみ)を紹介している青島健太さん。2020年東京五輪では、新しく採用された競技・種目の中に注目すべき価値観を見つけられると話します。【聞き手・神保忠弘】

    ロス五輪はつらい記憶

     ――最初に記憶にある五輪は?

     ◆いま61歳ですから、1964年の東京オリンピックは記憶に残っています。それまで我が家にテレビはなかったのですが、父親が奮発して、大会前の夏過ぎぐらいに届いた。家族みんなで、箱形のテレビに4本の脚をぐるぐるひねって差し込んで……。テレビと同時にオリンピックが来た。その後のメキシコ、ミュンヘン、モントリオール、モスクワ(日本は不参加)も、その時々の私自身の活動と一緒に思い出します。出場しない人でも、人生の彩りの一ページとして記憶に残るのがオリンピックの力ですね。

     ――何か個人的な思い出はありますか。

     ◆68年のメキシコ大会で銅メダルを獲得したサッカー日本代表のフルバックに、中央大学から日立製作所に進む山口(芳忠)さんがいらした。私の父も日立に勤めていて、五輪から数年後のある日、父が「山口さんからもらってきたぞ」とサッカーボールを持って帰ってきたんです。私は野球少年だったけれども、うれしくて、すり切れるほど壁に向かって蹴りましたね。本革のドッシリとした重いボールで、思い切り蹴ると子どもの足にはちょっと痛いぐらい。「五輪で使うボールってこういうものか」と思わせる重量感でした。

    社会人野球・東芝時代の青島さん=1981年撮影

     ――野球が公開競技として行われた84年ロサンゼルス五輪になると、ご自身に関わりが出てきました。

     ◆まあ、これは私にとって厳しい、つらい記憶です。83年に五輪予選を兼ねたアジア野球選手権がソウルで行われました。ライバルの韓国には大学生だった宣銅烈(ソン・ドンヨル、元中日)、台湾には荘勝雄(元ロッテ)、郭泰源(元西武)の二枚看板がいた。当時の日本は、まだプロがいない社会人だけのチームで、私は三塁のレギュラーでした。しかし私のエラーが原因で韓国戦を落とし、それが響いて代表権を取れなかったんです。打ちひしがれ、落胆して日本に帰りました。ところが歴史の巡り合わせというか、モスクワ大会の報復で東側諸国がロス大会をボイコットし、野球の優勝候補だったキューバも同調した。その枠で日本が(五輪に)行けることになり、しかも松永怜一監督率いる日本は金メダルをとった。

     ――しかし青島さんは代表には選ばれなかった。

    1982年の第53回都市対抗野球大会、佐賀関町(日本鉱業佐賀関)対川崎市(東芝)戦で本塁にスライディングする青島さん

     ◆僕らは戦犯ですからね。仕方がありません。そこが松永さんの素晴らしいところですが、若手中心のメンバーを組んで、前の年に(アジア予選に)行ったメンバーは、ほとんど選ばれなかった。だからといって恨みはないですが、自分がオリンピアンになれる千載一遇のチャンスをつかめなかった。今思えば、その悔しい思い、心にポコッとあいた穴をどう埋めるかが、85年のプロ入りにつながったと思います。

     ――もしオリンピックに出ていれば引退していた可能性があったのですか?

     ◆東芝の恵まれた環境で社会人野球をやり、83年に都市対抗も優勝して、どこかで引退することを想定した流れでした。けじめをつけて社業に就こうかと思っているところで、とんでもない悔しさを味わった。当時、五輪出場はアマの特権だったし、プロ入りに負けないほど魅力的でしたから。

     ――現在の五輪の野球は完全にプロ化しています。このことをどう捉えていますか?

     ◆最初は抵抗がありました。プロの出場がOKになった2000年のシドニーでは、プロ・アマ半々の折衷案みたいなチームを作った。私は「アマへの配慮もあるし、妥当なチーム編成だ」とコメントをしたら、あちこちから批判されました。「規則が変わった以上はプロのトップ級で行くべきだ。プロ・アマの国内事情を持ち込むのはおかしい」とね。しかしアマ選手における五輪の重さは体験的に分かっていたので、プロがOKになったから全員プロで、みたいなのは許せなかった。今もその思いはありますが、違う価値観もある。野球が五輪に残れなかった理由は、行われているエリアが少なく、世界的な競技としての評価がないからです。ならば五輪を通じてプロモーションを図らなければならない。素晴らしい、高いレベルの野球を見せることで、世界中のファンを獲得していく。野球の普及振興に五輪を機能させるには、高い技術を持った選手たちが思う存分それを発揮することが使命とも思う。

     ――しかし、次のパリ大会では野球は実施競技から落ちてしまいました。

     ◆残念な気持ちはあります。でも私はスポーツ全般に興味を持ち、応援する立場なので、代わりに新しく入る競技があるという意味では、野球が外れる理由も理解できる。

    新競技がスポーツの可能性を広げるかに期待

     ――代わりに入ってくるスポーツに注目したいと?

     ◆東京2020の注目点の一つは、スケートボード、サーフィン、自転車のBMX、スポーツクライミングとか、あるいはバスケットボールの3×3とか、人によっては「若者の遊びじゃないの?」という感覚で見られるような競技、種目が入ったことです。これらが五輪に入ったことで、どう化けるのか、あるいは淘汰(とうた)されるのか。ある種の実験です。そういう場となることが東京で五輪を開く大きな意義となるし、将来へのメッセージになると思います。陸上とか体操とか水泳とか、王道の五輪の楽しみ方を否定するつもりはありません。けれども、今までストリート系の遊びと思われていた競技の若者たちが、日本代表として五輪のステージで戦う。彼らがどんな活躍を見せるのか、そして勝ったときに何を発信するのか。今までとは全然違うスポーツ観が、そこに現れる可能性があると思う。そのチャレンジが東京で行われることを、大きな魅力として捉えています。

     ――スポーツの見方が変わる可能性があるわけですね。

     ◆それらの新競技が、もっとネガティブな評価をされているeスポーツとの関連性も開いていく気がします。eスポーツに対しては「あんなものはスポーツじゃない」と言う声がありますよね。新しく五輪に入る競技は、eスポーツ的なものと伝統的なものとの、ちょうど真ん中にあるように思います。ここが定着すると、もっとeスポーツ的なものが理解しやすくなるし、取り込むことになるかもしれない。スポーツの持つ可能性を広げる要素を持つ競技が、東京ではずいぶん入ってくるんですよ。これを私たちが、どう理解し、楽しんでいくかが試される。「こんなものは五輪競技じゃない。ダメだ」と完全否定するのも結構。しかし、最先端なものとの融合というか、うまく混ざり合う五輪の魅力が東京2020で出るといいなと思いますね。

     ――その意味では、東京2020は五輪の歴史の中でもエポックメーキングな大会になる可能性があると。

     ◆そうです。柔道や空手のような武道的なものと、スケボーや3×3など対極にあるようなものが、ごっちゃにあることが楽しい。それこそがスポーツです。多様性を取り込むことが今の時代に最も必要であり、それを東京という枠組みの中でやろうとしているわけです。それをどう考え、受け取るのか。いろいろなものが多様に楽しまれ、競われて、新しい価値観が世界に発信されることが、東京2020が持つ意味であってほしい。

     ――野球についての質問から始まって、大きなテーマへとつながりました。

     ◆例えばバスケの3×3とか、スケートボードとか、BMXとか、あっという間に世界中津々浦々に広がる可能性がありますよ。

     ――パッと見て面白いですものね。

     ◆スケボーとかBMXのフリーとかは、紛争があるような厳しい国や、荒廃した地域でもやれる広がりを持っている。バスケットも3×3なら街中の小さなスペースでもできる。自転車の曲乗りもできる。そこから五輪を目指す子どもが出てくるかもしれない。その意味でも、新しく入ってくる競技に期待しますね。五輪は未来に対して、いろいろな実験をする場でいいんじゃないでしょうか。

    青島健太氏=東京都港区で2019年5月20日午後2時10分、宮本明登撮影

     ――そうした見方は日本ではなかなか聞かれないです。日本人のスポーツ観というのは、どちらかといえば保守的ですから。非常に新鮮に聞こえます。

     ◆保守的なことは悪い事じゃないし、だからこそ良いものを守ってきた面もある。あと我々日本人の特徴として、精神性を求めますよね。そこに価値や美徳を見いだす。それは大事だけれども、世界を見たときに、もっと楽しみながらやる姿があることにも気づいた。例えばMLB(米大リーグ)で、大谷(翔平)君が肘の手術から復帰したときに、久しぶりの出場を「楽しめました」とコメントした。北島康介が金メダルをとって「ちょー気持ちいい」と言った。今までとは違う表現、感じ方をする若者が出てきて、少しずつ僕らを柔らかくしている。その流れで、今度の東京が、いろいろな人を柔らかくしてくれる場になるわけです。「東京ではそういうものに出会えますよ」「柔軟なスポーツ観を手に入れられますよ」ということを伝えていくことが、僕らの使命かなと思います。

     ――スポーツジャーナリストとして、そうしたことを訴えていきたいと。

     ◆残念ながらスポーツ界は昨年、不祥事が続いた。パワハラであったり、体罰であったり……。暴力的な指導が今も折々噴出しているし、昔は日常的にあった。スポーツは本来、僕らの持つ可能性に働きかけて、それを表現して、みんなで喜び合うものだという気づきを、オリンピックを通じて伝えたい。東京2020は、それを見せる場であってほしい。「人間の可能性を発揮する、前向きで楽しいもの」というスポーツ観を、みんなが感じ取ることが、最終的にパワハラとか体罰を否定する社会を生む、大きな推進力になる。

     ――国際オリンピック委員会(IOC)は若者を引きつけるためだけに新競技を入れていると考えがちですが、こうしたスポーツは誰でも気軽に楽しめるスポーツでもある。貧しい国や、普通の若者でもできる。24年のパリ大会ではブレークダンスも入るし、ストリートで踊っている人たちが五輪選手になるかもしれませんね。

     ◆だから、こうした新競技にも重要な意味があると思うんです。小中高生を中心とする若い世代は「サーフィンを見たい」「スポーツクライミング格好いい」「BMXのフリーみたいに曲乗りしたい」と、伝統的な競技だけに縛られない柔軟な興味を持っている。新しいものへアンテナを張り、すくい上げていくのもオリンピックの大事な要素だと思う。それを大胆に入れたことで、東京らしい形ができあがった。「ピアスなんかしたチャラチャラしたやつがオリンピックに出るな!」って言う人たちを、若い世代が驚かせてほしい。「あいつらチャラいけどスゴいな」「あの競技は面白いな」と思わせるものを発信してほしいですね。

    あおしま・けんた

     スポーツジャーナリスト、元プロ野球選手。1958年新潟市生まれ。埼玉県立春日部高、慶大、東芝でプレーし、東芝では83年に都市対抗野球大会で優勝。85年にドラフト外でヤクルトに入団、同年5月11日の阪神戦(神宮)では公式戦初打席本塁打を記録した。89年限りで現役引退し、オーストラリアでの日本語教師を経てスポーツジャーナリストに。2005年には社会人野球・セガサミーの初代監督に就任し、07年に都市対抗初出場へと導いた。

    神保忠弘

    毎日新聞オリンピック・パラリンピック室委員/編集編成局編集委員。1965年神奈川県生まれ。89年入社後、小田原支局、横浜支局、運動部、大阪運動部、運動部デスク、運動部長などを経て、2019年5月から現職。学生時代は一貫して帰宅部、私生活は徹底したインドア派なのに、なぜ長くスポーツ報道に関わっているのか時々、不思議に思う。