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コウノトリ空へ 2005初放鳥

元飼育長・松島興治郎さんに聞く/16〜18 /兵庫

「保護第1号」になった野生コウノトリのつがい=県立コウノトリの郷公園提供

ああ、今日も生きてる

 −−松島さんを飼育の仕事に駆り立てたのは責任感でしたか?

     もう責任感というより、私1人しかいませんから。(私が)退いたら鳥は死ぬか、(保護増殖の)事業がやむか。

     −−やむにやまれず、ということですか?

     瞬間の休みもないわけですから、誰かが何かをして、つなげないといけない。

     −−ストレスがたまったのでは?

     たまりましたよ。

     −−発散はどうやって?

     ……まあ、根っからの気楽人なんでしょうね。

     −−寝たら忘れちゃう?

     忘れたりしませんけど、強靱(きょうじん)にできてたんですよ。もう本当にね、朝起きたら「わぁっ、生きてる!」って感動するんです。それで一日済んだ、「今日も頑張った」「明日もあるように」って。病人やなんかでも(か細い声で)「ああ、明るくなった。生きてる」って言うでしょうが。一緒ですよ。日がとっぷり暮れるまで、そんなつながりの繰り返しですから。

     −−「生きてる」とは松島さん自身が?

     いや、鳥が。「ああ、今日も生きてる」って。そのぐらい厳しい状況だったんですよ。いつ何が起きるか分からないですから。ぱっと朝起きて、真っ先にもう目の前にいるわけですから、(作業小屋の)戸を開けて出た時に、あっいる。頑張ってる、クラッターリングやってる。そういう中で「おはようさん」「今日も元気でいこうぜ」っていうような、無言の中でやりとりをしながら。

     −−その時もし松島さんが逃げ出していたら、試験放鳥は迎えられなかったですね。

     逃げなかったし、私が逃げないでやれるようなことを、周りの人たちがやってくれてたといういうのもあるんですよ。それは私にとって、唯一今がある大きな要因だと思います。

     −−「朝が迎えられる」ことが松島さんにとっても大事なことだった。

     それはもう、素晴らしいもんだった。

     −−糧だった。

     うん。それで生きてるという。

     −−命のつながりを目の前で感じる毎日だった。

     夜が明けて、すうっと朝の空気を吸った時に、やっぱり生きてる、生きた、今日が始まったっていうのが、これが明日につながるんですよ。その日その日から出発ですから。

    雪が積もる「コウノトリ飼育場」にできた新しいケージにコウノトリを移す松島さん=91年1月17日

    「一生懸命」しかなかった

     −−松島さんの「支え」とは具体的に何だったのですか?

     私の仕事を軽くしてくれるということじゃなくて、やっておれるだけの精神的な支えになってくれたり、ある時には希望を見いだしてくれるような何かをくれるような人たちが常に身の回りにあった。私は非常に幸福だったと思う。そりゃあ不平不満もようけありましたよ、「人を何と思ってるんだ」と。私だったら、そんな使い方したら、この人の家族は恐らく持たないだろうなって思いますよ。

     −−それでも感謝の気持ちを持てるというのはまるで仙人です。

     だけど、ある違う面では私に「お前はダメだ」と言わないでやらせてくれてる。神戸や大阪や京都の動物園にもよく出入りしました。なぜかっていうと、そういうところで少しでも人の持ってるものを盗んで自分の糧にしたいし、自分がこれから何をやるべきかの判断材料にしたい。そういった時に、本当に仲間のような形で私に接してくれる人たちが何人もいた。私はその当時としては、べらべらじゃないし、人見知りもよくしたけど、妙に人がよくしてくれるんですよ。

     −−「おれがコウノトリを守らなきゃ」という気負いは?

     なかった。ただその時々、やっぱり一生懸命だったのは、人がどう言おうとそれしかなかったから。でも「これを守ってやらなきゃならない」とか何とかって理屈っぽいことはなくって、そんなカッコイイもんじゃないよ、もう。ほんと、一生懸命。っていうか一生懸命じゃないと、もうどうしようもない雰囲気の時代なんですよ。

     一生懸命という意味もいろいろと解釈の仕方はありますけどね。自分なりに「自分の力はこんなもんだ」ということで一生懸命。私の心の中で、私の判断の中で、「今することはこれだ」ということで一生懸命。今日は済んだらいいってことではない。今日が終わるっていうことは、明日があるために今日が終わるんだ、ということでないと、やってられませんよって。

    72年2月、小さなケージに入れられ、お見合いする雄「神戸吉川」(右)と雌「武生」。結婚後の松島さんにも苦労は続いた=県教委「コウノトリ保護増殖事業の概要」から

    嫁さんもらったけど…

     −−人工繁殖の成功まで「本当なら逃げ出したかった」という苦しい道でした。泣き言いってられるような雰囲気じゃなかった?

     どんどんと状況がね、思わしくなくなってきたんですよ。泣き言なんかいってられない。その日その日がもう、真剣勝負。誰に頼るかっていったって、自分以外ないんですよ。けどね、泣き言いったって結果的には自分でやってることは自分で責任を持たなきゃいけない。自分のこととして跳ね返ってきますから。

     −−平穏な暮らしもままならない状況ですね。

     そうそうそうそう。これはいかんっていうのでね。おれも嫁もらわな、27(歳)にもなってどうしてくれるんだ、って。いやまあ、もっともだ、じゃあ嫁があるのかっていうから、探さないかん。努力したんですよ。

     近在では「あんなへんな人に嫁やったらどうしようもない」。だから、大阪のほうから。まあ、そうはいったって、すぐっていうわけいかないし、私もすぐに来られても生活に困るし。

     −−生活に困るというのは収入面で?

     いやいや、(飼育の仕事を)1人でやってたし。だから、こういうふうに結婚しようと思ってるんだということで、何とか(今の状態を)変えてくれと。少しくらい考えてくれてもいいじゃないかということで、じゃあ、「もうしょうがないなあ」と。

     −−昭和43年9月、27歳の松島さんは、当時21歳だった久美子さんと結婚されました。

     飼育場に365日泊まりっ放しのような状態でしたけど、1週間にいっぺんくらいは休みっていうか、自宅に帰りました。

     −−やっと人間らしい生活になりましたね。

     いやあ、人間らしくなかったですねえ。きちっとじゃなかったです。本当にその時々はもう精いっぱいでしたからね。家族をほったらかしたという意識は、私は全くないんですけど、家族のためにも私は一生懸命やったぞという気持ちでずっとおりましたけど、やっぱり一般的(な家庭)ではなかったというのはたしかです。=つづく

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