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<毎日新聞1945>秘密の「便所通信」 ラジオで海外情報入手

ドイツの無条件降伏を伝える1945年5月9日朝刊。紙面には中立国の地名がついたクレジットが散見される
ドイツの無条件降伏を伝える1945年5月9日朝刊。紙面には中立国の地名がついたクレジットが散見される
毎日新聞東京本社で、戦果発表の電光ニュースを見る人たち=東京・有楽町で1944年1月
毎日新聞東京本社で、戦果発表の電光ニュースを見る人たち=東京・有楽町で1944年1月

 太平洋戦争開戦直後、東京・有楽町に当時あった毎日新聞東京本社で、女子トイレが改造された。「欧米部別室」の木札を掲げたが、音が漏れないようドアは二重にし、壁にビロードの黒いカーテンを張り巡らし、宿直用の2段ベッドも置いた。この秘密の小部屋で他国の短波ラジオを受信し、数々の記事が生まれていく。それは社内で「便所通信」と呼ばれた。

 「【ストックホルム特電七日発】デーニッツ獨総統は、ラジオを通じて獨軍の全面的無條件降伏を公式に発表した」

 1945年5月9日朝刊で、毎日新聞はドイツの無条件降伏を伝えた。特電とは特別の電報通信の略で海外特派員などが送ってきた記事であることを指す。現在の新聞もそうだが、記事の冒頭に【○○○○◇◇】というクレジット表記が付くのは通常、海外特派員発の記事や通信社の配信記事だ。

 ところが、太平洋戦争中の毎日新聞によく登場するリスボン(ポルトガル)、ストックホルム(スウェーデン)、チューリヒ(スイス)など中立国発の【○○特電】【○○本社特電】は、事情が異なる。前出の記事が示しているように、多くは東京本社内でラジオ情報を基に作られた記事だった。

 社史などによると、41年12月8日の太平洋戦争開戦と同時に、毎日新聞は大本営発表を除き、海外情報を入手する公の手段を失った。特約を結んでいた米国UP通信からの配信は途切れた。海外特派員の活動も通信事情の悪化などで事実上ストップした。社内では開戦当日のうちに極秘の緊急会議を開き、法律で禁じられていた短波ラジオの受信を決めた。

 当局に漏れれば独自の情報源は失われる。検討した結果、3階の編集局入り口に近い女子トイレが選ばれた。当時欧米部員だった渡辺善一郎氏(故人)の回想によると、受信を担ったのは、二重国籍の日系2世ら30歳前後の8人。昼間は雑音が多く聞き取れないため、深夜に周波数のダイヤルを回す。

 米国、英国、フランス、ドイツ、ソ連、トルコ、オーストラリア、中国などのラジオ放送を受信し、ニュースを中心に宣伝や謀略放送も記録した。鉛筆で走り書きし、内容に間違いがなければタイプする。そして「別室」と編集局内の欧米部を結ぶベルを押し、取りに来た欧米部員に渡す。デスクの判断で記事を使う場合、翻訳する。仕事内容は口外厳禁だったが、社内ではいつしか「便所通信」と呼ばれるようになっていた。

 第二次世界大戦の開戦前から、ラジオはメディアの新媒体として各国の宣伝に利用され始め、さながら電波戦の様相を呈していた。毎日新聞幹部はこれらの受信により、大本営が隠す戦況をつぶさに把握していたという。

 例えば太平洋戦争の転機となった42年6月5〜7日のミッドウェー海戦。外国ラジオは「日本艦隊は壊滅的打撃を被った」と繰り返し、「赤城」など空母4隻の沈没も伝えた。しかし、大本営は6月10日、空母4隻、航空機約300機などの被害を隠し、逆に戦果を誇大に発表した。毎日新聞は翌11日朝刊で大本営発表をそのまま報じた。新聞紙法、治安維持法などにより報道内容が厳しく統制されていたためだ。

 掲載できない情報は本社幹部に報告され、情勢判断の材料として「マル秘」の紙袋に保存された。当時編集総長だった高田元三郎氏(故人)は「新聞は完全に国策遂行の機関となり、紙の弾丸としての役割を果たすだけになった。戦争も末期になると、白を黒といい、敗戦の事実をも隠蔽(いんぺい)して、士気高揚をやれというのが、一番つらかった」と振り返っている。

 ラジオを通じて欧州戦線やガダルカナル島の戦い、山本五十六の死、ヤルタ会談、ポツダム協定などの詳細がもたらされた。渡辺によると、「便所通信」は終戦後も続いたが、社内から「アメリカ側の目に触れてはまずい」との声が出始め、45年8月20日ごろ元のトイレに戻された。【伊藤絵理子】

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