多様な意見への配慮必要
安保法制について、いつもより多くの意見が集まりました。国民の関心が高く、多様な意見があり、議論をしたかったのに、なかなか適切な場がなかったのではないか、と強く感じました。
反対派からは、「近隣からの脅威から身を守るため、という意図とはいえ、この法制で日本が再び近隣から脅威と見られるリスクをどう考えるか」という視点が抜けているとの指摘が多数ありました。特に、世界最大の軍隊を持つ米国と一体化することへのリスクです。なぜなら、戦後、米国は何度も実際に戦争を起こしているからです。
また、集団的自衛権には賛成だが、憲法を改正せず解釈だけで行うことを懸念する意見もあります。民法や商法は実情に基づき柔軟な解釈ができるが、憲法や刑法などは厳密な解釈が必要であり、政府が柔軟に変更すること自体を懸念しています。
一方、賛成派の意見としては、「日本がこれまで戦争をしてこなかったのは米国との同盟関係があり、それが抑止力なのだから、近隣諸国のリスクが増している以上、強化することは問題ない」というものです。意見の中には「集団的自衛権の行使を容認する解釈は安倍晋三内閣で始まったものではなく、昭和の頃から容認しており、今回はその法体系を整えるにすぎない現状肯定だ」との指摘もありました。
今回の意見から浮かび上がったのは、賛成派は近隣諸国の脅威が増しているとして被害者になることを懸念し、予防すべきだとの考えなのに対し、反対派は日本が将来、米国と組んで加害者になる可能性が高まるので、そこに配慮すべきだ、という違いです。また、憲法学者の多くが解釈変更に反対する中、安倍内閣をはじめ、政府がどれだけ信頼できるかも懸念されます。
内閣はあくまで国民の総意をとりまとめ、実行するのが役割だと思います。しかし、国民投票や解散などの手続きを踏まずに、強い立場を利用して多くの変更を「押しつけている」と感じているのが、今回の議論の混迷の背景ではないでしょうか? 不安の声への配慮が欠けているのです。
ベストアンサーには、ふゅあ菜さんの意見を選びます。この法制の中身には賛成だが、成立には反対。なぜなら、手続きが憲法違反であり、かつ、民主主義の手続きではなく、独裁としての手続きに近いことへの懸念です。
民主主義の最大の利点は、多様な意見があることです。このような重要な論点に対して、必要性や緊急性があるから、強行採決もかまわない、という姿勢そのものが、将来の戦争のリスクを懸念させるのではないでしょうか? 欠けているのは、多様な意見への配慮ではないかということが、今回浮かんだのではないでしょうか?(経済評論家)
安保法制の議論は、賛成派や反対派の極端な言論や、互いの批判ばかりが目につき、何の議論をしているのか不明確にみえる。より議論を整理、深めるために、安保法制や集団的自衛権の議論で何が欠けているのか、などについて意見を求めたい。
*投稿全文はニュースサイトで見られます。=次回は9月8日掲載。