もう一度読みたい

<平和と民主主義>山口淑子さん 「二つの祖国」をみつめて

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=1973年12月撮影
=1973年12月撮影

 今は亡き著名人のインタビューを再録する「もう一度読みたい <平和と民主主義>」第9回は元女優で、参議院議員(3期18年)も務めた山口淑子さん。戦前・戦中は「李香蘭」を名乗り国策映画に出演。戦犯容疑をかけられるなど、その人生は日本の侵略と敗亡、復興の歴史と重なる。首相の靖国参拝に反対し、「歴史認識の問題を勉強して、けじめをつけるべき」と訴える。日中関係がいっそう複雑さを増すいま、日本と中国の「二つの祖国」のはざまで揺れ続けた山口さんの言葉に耳を傾けたい。


<2006年2月24日 東京本社夕刊2面>

 東京・永田町にほど近い住宅街。この一角に、山口淑子さんが外交官の故大鷹弘さんと暮らしたマンションがある。いまは1人暮らし。今月12日に86歳になったばかりだが、引きこもる様子はない。参院議員を引退した後もずっと、中国、韓国などの元従軍慰安婦への支援活動に参加し、小泉純一郎首相の靖国参拝に異を唱え続けている。そのエネルギーはどこから生まれてくるのだろう。

 「最近、体調がすぐれなくて」。少々お疲れの様子。年末からかぜ気味で、ティッシュを手放せない。でも、はなをかむ仕草ひとつが絵になる方だ。失礼ながら、そう思ってしまった。薄いグレーのサングラスにスーツ姿。エキゾチックな目元が透けていた。

李香蘭時代の山口淑子さん=1940年8月撮影
李香蘭時代の山口淑子さん=1940年8月撮影

好奇心が旺盛

 戦前、東アジアの映画界を席巻した「李香蘭」の肖像画が、居間の壁にかかっていた。作は、昭和画壇の重鎮、梅原龍三郎画伯。中国で歌手デビュー(1933年)した後、北京のホテルに滞在していた梅原画伯に請われてモデルを務めたときのものだ。「私、何でも好奇心が旺盛なのよ」

 東京地裁で23日、懲役20年の実刑判決を受けた元日本赤軍最高幹部、重信房子被告(60)との交流もそうだった。「すばらしい人生に新しい年輪を刻み、生きてください」。重信被告から先日、誕生日を祝う手紙が弁護士を通して届けられた。

 出会いは、フジテレビ「3時のあなた」の司会者を務めていた73年8月。中東問題の現地取材中、レバノンで重信被告との単独会見に成功した。それが縁で手紙の交換を続けた。00年11月に逮捕された重信被告と昨秋、東京拘置所で32年ぶりに再会した。「塀の中で重信さんが何を考えているか気になって。懲役20年ねえ。いろんなことを思い起こすけど、言葉にならない。重信さんは聡明(そうめい)な方なんだけど、日本政府のやることに反対していたから……」。言葉は途切れがちになった。

 過激派への共感ではない。「重信さんにカンパするような関係ではないけど、昔の若者には覇気があって、信念に基づいて動いていた。自分のことしか考えられないような今の若い人とは違う。暖かくなったら、重信さんにまた会いに行こうと思っています」

「李香蘭」を捨てた

 取材の前日、体調不良をおして、日中協会会長の野田毅元自治相の訪中報告会に出席した。「みなさんで知恵を出しながら、日中問題の解決を図りましょう、とあいさつしてきたのですけど、本当に困った。日中問題をどうしていけばいいのか、誰がこの問題を解決できるのか……」

 旧満州と北京で生まれ育った生粋の日本人。小泉首相の靖国参拝や歴史認識問題で対立する「二つの祖国」のはざまで悩み続けている。戦前、「五族協和」に貢献しようと国策映画に出演したが、中国人から反感を買っていた。

 「だから私は、満州国がなくなったときに、李香蘭の名前を捨てた。首相の靖国参拝には反対。中国の唐家璇国務委員は、日本語を長く学ばれた方で、何度かお会いしたけど、心の広い親日家です。その唐さんを『小泉首相にはもう期待していない』とまで怒らせた。教科書問題、歴史認識の問題をもう一度勉強して、けじめをつけるべき時です」。「二つの祖国」の対立はもうたくさん、といわんばかりだ。

 そんな山口さんに政治家としての素養を見いだし、国政への転身を要請したのは、田中角栄元首相だった。ロッキード事件で田中元首相が逮捕されて今年で30年。刑事被告人として亡くなったとはいえ、日中国交正常化を実現した男の功罪は計りがたい。

 山口さんの評価は、「功」の方にある。「角さん級の幅、重さ、広さのある政治家が少なくなりました。政治が新しくなることは悪いことではないけれど、つまらないことを言う政治家が増えましたね。小泉チルドレンなんかそう。『料亭に行きたい』なんていう人がいたけど、政治があの程度に軽くなってしまった」。では、どんな政治家がお好きでしょうか?

 「筋の通った政治家が昔はいたの。後藤田正晴さんとか、伊東正義さん。後藤田さんは普段無口なんだけど、怒ったときは怖かった。カミソリ後藤田って言われたものね。伊東さんはいつもダンディーで、筋の通らないことはしなかった。そんな政治家、いまいるかしら」。後藤田さんは首相の靖国参拝に対して慎重な見方を取り続けた。伊東さんにいたっては、竹下登元首相がリクルート事件で辞任に追い込まれた後、自民党の後継総裁の話を断った。「自民党の表紙を変えても、中身を変えなければだめだ」という言葉を残して。

アジア女性基金

 12歳の時、後に平頂山事件(32年9月)と呼ばれる武力衝突で、日本の憲兵が中国人を暴行する現場を目撃している。

 元従軍慰安婦支援のため95年に発足した「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)の副会長に就任するきっかけにもなった、つらい記憶である。

 発足から11年。元従軍慰安婦285人に1人あたり200万円を支給してきた基金の支援活動は、来年3月で終了する。日本政府による国家賠償ではないことを理由に、アジア各国から批判を受けたこともあり、平たんな道のりではなかった。

 山形市で95年末に開いた基金のシンポジウムで、賠償の必要性を訴えたときのこと。年配の男性が「戦時中、従軍慰安婦を買いました。いまは慚愧(ざんき)に堪えない」と、山口さんに数百円を託した。男性の勇気に胸が詰まった。「基金のおカネは、元従軍慰安婦に募金を届けるだけじゃないの。医療、福祉の面で、ちゃんとケアしています」。基金の活動は今後、家庭内暴力に苦しむアジアの女性に対する支援にシフトし、新たな展開を迎える。

 「本当は、もういい年だし、社会的な活動から引退したいんだけど……。でも、家庭内暴力の問題も勉強していかなければならないわね。基金の活動そのものが終わるわけではないから」。まだまだ、周囲が放っておかないだろう。

安保への思い

 人一倍の情熱と行動力。女優としても、テレビ司会者としても、参院議員としても実績を残した。ありあまるエネルギーは一時期、安保闘争に向かっていった。「60年安保のとき、デモ隊に交じってよく、国会議事堂の近くをジグザグ行進したものよ」。柳眉(りゅうび)を逆立てて国家権力とぶつかる山口さんを、どうも想像できない。

 「東大生の樺美智子さんが亡くなった日(60年6月15日)、デモ隊が気になって主人(弘さん)と国会周辺を車で走っていた。カーラジオで学生が死んだことを知った後で、血だらけの男子学生3人が手を振って車を止めた。『道を教えますから、僕らを病院に運んでください』といわれて、乗せてあげた。そしたら、連れていった医者が『政府に反対するような若者は診察しない』と断った。腹が立ったけど、彼らのアジトに送り届けてあげたの。主人は当時、日米安保を取り仕切る外務省の安全保障課(現・日米安全保障条約課)に勤めていたから、気が気じゃなかったらしいけど」

 目を輝かせて懐かしむような語り口。日本の若者が政治的なエネルギーを発揮しなくなったふがいなさに、居てもたってもいられないという感じだ。

 居間をながめ回すと、サッチャー元英首相やアラファト前パレスチナ自治政府議長、喜劇王のチャールズ・チャプリンらと一緒に写っている写真や、旧満州の「ラストエンペラー」の愛新覚羅溥儀の実弟、溥傑氏から贈られた漢詩の額もある。宵の時間、彼らとの思い出とキャビアを肴(さかな)に、シャンパンを味わうのが楽しみだ。チャプリンの写真を指さしながら、「この方は、ジョークの中にある悲しみが分かる人だった。そういう人も最近、いなくなったわね」。

 別れ際、「おいしいシャンパンが手に入ったから、今度飲みにいらっしゃいよ。お嫌いかしら?」とお誘いの言葉。いいえ、嫌いじゃございません。「お邪魔に上がります」と答えてみたものの、私なんかで乾杯の相手が務まりますかどうか。【野島康祐】

山口淑子さん略歴

 やまぐち・よしこ。1920年、旧満州(現中国東北部)の北煙台生まれ。38年、満州映画協会にスカウトされ、李香蘭の名前で映画デビュー。51年、彫刻家のイサム・ノグチ氏と結婚したが、5年後に離婚。58年、大鷹弘氏との再婚を機に女優業を引退。参院議員は74年から3期18年。ジャーナリストの藤原作弥氏との共著に「李香蘭 私の半生」(新潮社)がある。

=2006年2月24日 東京本社夕刊2面
=2006年2月24日 東京本社夕刊2面

その後の山口さん…日中つなぎ四半世紀 舞台これからも

 山口淑子さんは2014年9月7日、心不全のために亡くなった。94歳だった。その半生を描いた劇団四季の「ミュージカル李香蘭」は1991年1月の東京での初演以来、今年9月までに計872回の上演を重ねてきた。山口さんは各公演の初日や千秋楽にしばしば、足を運んでいた。そのたびごとに「戦争の残酷さと自身の弱さ、醜さ、至らなさ」をかみ締めていたと語ってもいた。

 中国と日本、黒い髪と黒い瞳、私たちは兄弟−−。そんなメロディーが作品の最終盤に歌われる。「日中友好の祈りを作品に込めました。2つの国を愛した彼女の生き方を通し、両国民が互いに良い関係を築ければ」。演出家の浅利慶太さんは語る。

 作品は中国北京、瀋陽、シンガポールなどで、地元の観客らの共感を得てきた。時に日中の関係は政治的問題でぎくしゃくしがちだが、浅利さんは「今後も文化による交流に役立っていきたい」と力を込めた。50年後、100年後にも通用する作品を−−との心血が注がれた、中国人の名を持った日本人女優の物語。

 「戦後70年」が閉じる今年12月初旬には再び、公演の幕が上がる。【高橋昌紀】

<「平和と民主主義」は連日掲載します。次回は小田実さんです>

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