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沖縄・米軍普天間飛行場返還、対立と曲折の20年

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大田昌秀氏=佐藤敬一撮影 拡大
大田昌秀氏=佐藤敬一撮影
岡本行夫氏=竹内紀臣撮影 拡大
岡本行夫氏=竹内紀臣撮影
周囲に住宅が密集する普天間飛行場=本社機「希望」から、和田大典撮影 拡大
周囲に住宅が密集する普天間飛行場=本社機「希望」から、和田大典撮影
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 日米両政府が1996年4月12日に全面返還に合意した米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)は今も返還の見通しがたっていない。この20年の間に沖縄本島北部の名護市辺野古への移設が決まったが、「世界一危険な飛行場」の返還はいくつもの曲折をへてきた。中国や北朝鮮をにらんで、抑止力の維持や危険性の除去のために「辺野古移設が唯一の選択肢」とする日本政府。過重な基地負担への反発だけではなく、知事選などで移設反対を求める民意が示され、民主主義や人権問題の観点からも県内移設に異を唱える沖縄。双方が対立した20年の動きを振り返るとともに、返還合意当時、沖縄県知事だった大田昌秀氏(90)と、橋本龍太郎首相の下で首相補佐官を務めた岡本行夫氏(70)に話を聞いた。

「県内」では納得できず 元沖縄県知事・大田昌秀氏

 1996年4月12日、橋本龍太郎首相から「普天間を返させることになった。これから県も政府と協力してほしい」と電話があった。「返還はありがたいが、協力できることとできないことがある。県幹部との会議で議論して決める」と答えると、橋本首相は「自分だって独断で決めたのだから、知事も独断で決めてもいいじゃないか」と迫ってきた。その時には、移設問題が20年も長引くとは思わなかった。

 未解決のままなのは、沖縄県民が納得できない「県内移設」の条件がついているからだ。沖縄の人たちには住民の4人に1人が犠牲となった71年前の沖縄戦の体験がある。常に平和を追求する県民にとって、辺野古の美しい海を埋め立てて耐用年数200年に及ぶ基地を造ることは到底容認できない。だから私も「引き受ければ沖縄は半永久的に基地と同居しなければならない」と移設を拒否した。

 政府は辺野古に移設する理由を(普天間飛行場周辺の)「危険性の除去」という。だが、そうであるならば新基地を造らずに、すぐに撤退させるべきだ。それができないのは日本政府が米国政府に何も言えないからであり、この従属的関係が変わらない限りは普天間移設問題が解決するのは難しいだろう。

 結局、普天間移設問題から見えてくるのは「政府の言うことに地方は従うべきだ」という強権的な姿勢だ。2000年の地方自治法改正で国と地方の関係は対等とされたが、中央集権体質は何も変わっていない。そして、いかに政府が沖縄を見下して差別的に扱っているかもあらわになった。

 沖縄には「他人の苦しみを見たら自分の胸が痛む」という意味の「肝苦(ちむぐり)さん」という言葉がある。沖縄の問題についてせめてもう少し本土の人たちが自分たちの問題として考えてくれればいいが、そうでないところに一番の悩みがある。返還合意から20年たってむしろ状況は悪くなっており、今後どうなるか心配でならない。【聞き手・佐藤敬一】

信頼関係築き方法論を 元首相補佐官・岡本行夫氏

 普天間返還合意当時の橋本龍太郎首相、梶山静六官房長官は沖縄問題を内閣の最重要課題だと言い切り、非常に強い思いを持って取り組んでいた。私も含めて誰もが「数年で返還は実現する」と感じていた。しかし、その後に関係省庁や県、業者も含め、それぞれの思惑が強く出過ぎ、トップの太い方針で「まっしぐらに進む」ということではなくなり、今にいたっている。

 政府と県の双方に反省すべき点があるが、政府はまず、凄惨(せいさん)な沖縄戦の歴史に粛然と頭(こうべ)を垂れなければならない。米軍の本土侵攻を遅らせるため沖縄を見殺しにし、結果的に住民が陸軍の盾になる格好で本島南部で13万人ともされる住民が殺された。1972年の沖縄返還後の基地縮小にもどれだけ真剣に取り組んできただろうか。

 鳩山由紀夫首相(当時)の「最低でも県外」発言は決定的だった。苦労しながらも移設容認で住民をつなぎ留めていた保守系政治家も一気に反対に回ることになった。9割以上が反対する中で、工事を強行するのは容易でない。

 一方の県は、普天間の危険性、公害の問題を政治闘争に転換してしまった。辺野古移設で事故の危険性も騒音も海上に出る。飛行場面積も普天間の半分以下になる。普天間周辺住民には疑いなく良い選択でも、新基地を造らせない政治闘争を優先させる。県側の硬直的態度を危惧している。

 安全保障でもエネルギー政策でも、国の方針と住民感情が相反するとき、首長の役割は大変重い。絶対反対と言う首長を踏みにじって国の政策を押しつけることはできない。だからこそ首長が現実の危険や問題にどう対応するかが問われる。基地縮小と危険性除去という最終目標では政府も県も一致している。道程の差があるだけだ。信頼関係を築き、道筋や方法論を話し合ってほしい。

 中国が望んでいるのは本土と沖縄の離間だ。沖縄が胸を開くのなら、政府も現在案を見直すことも検討すべきではないか。次善の策も三善の策もある。【聞き手・高本耕太】


民意と政府、深まる溝

 「日本の地方自治や民主主義が問われている」。沖縄の民意を背に、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設反対を掲げる翁長雄志知事は繰り返し訴える。「沖縄の基地負担軽減」から始まった移設問題は20年の曲折を経て、さまざまな問題を政府や国民に投げかけている。

 移設問題の起点は1995年の在沖米兵3人による女児暴行事件だ。事件を機に高まった沖縄の反基地感情のうねりに、日米両政府は96年4月に県内移設を条件に普天間飛行場の返還で合意する。

 移設先に浮上した名護市は97年12月に市民投票を実施し、反対が過半数を占めたが、比嘉鉄也市長(当時)が受け入れを表明して辞任。その後、計画案の変更などを巡って、政府と沖縄県との間でつばぜり合いが続く。

 2009年に「最低でも県外移設」と掲げた民主党の鳩山由紀夫政権が誕生。だが、1年足らずで辺野古移設に回帰し、沖縄では過重な基地負担を「差別」ととらえる声が大きくなる。沖縄の集会で鳩山首相に県外移設を求める走り書きのメモを渡した伊波美恵さん(61)は言う。「右手で持っているものを左手に替えても沖縄の負担は変わらない。誰かが受け取ってくれないと」

 12年の衆院選で自民党が政権を奪還し、政府は13年12月に仲井真弘多知事(当時)から辺野古埋め立ての承認を取り付けたが、反動は大きかった。14年11月の知事選で移設反対を訴えた翁長氏が仲井真氏に約10万票の大差で初当選した。圧倒的な民意が示された。

 翁長知事が埋め立て承認を取り消すと、政府は代執行訴訟を起こして法廷闘争に突入。今年3月に和解し、再協議に入った。

 政府が移設推進を堅持する中、民主主義や人権の観点から移設問題を問う声が出てきた。15年9月には翁長知事がスイスの国連人権理事会に出席し、沖縄に自己決定権がない現状を国内外に訴えた。学生団体「シールズ琉球」のメンバーで、宜野湾市出身の元山仁士郎さん(24)は語る。「憲法や民主主義を守ってほしいから『おかしい』と声を上げている。沖縄だけでなく、世界の共通の問題のはずだ」【佐藤敬一】

米国の戦略支える要衝

 政府は、普天間飛行場の危険性除去と日本周辺の抑止力維持には「辺野古移設が唯一の選択肢」(安倍晋三首相)との立場だ。背景にあるのは、海洋活動を活発化する中国や、核・ミサイル能力増強を進める北朝鮮の動きだ。ユーラシア大陸と太平洋の間に位置する沖縄本島への米海兵隊駐留で、抑止力が高まるとの判断だ。

 戦略的要衝の沖縄からは、ベトナム戦争で爆撃機が出撃し、冷戦後もアフガニスタンやイラクへ在沖縄海兵隊が展開。米国の世界戦略を支えた。グアムやハワイより朝鮮半島や台湾海峡、南シナ海などの潜在的紛争地域に近く、米軍の緊急時対応の「足場」として重要であり続ける。

 中国にも南西諸島は大きな壁だ。米国の核戦力に対抗するには、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)搭載の原子力潜水艦が自由に太平洋へ展開できるかがカギを握るが、南西諸島を拠点とする日米の探知網突破は容易でない。防衛省幹部は、沖縄への米軍駐留は「日米同盟の抑止力に不可欠」とみる。

 海兵隊は在日米軍唯一の地上戦闘部隊で、高い上陸作戦能力を持つ。航空部隊や後方支援部隊との一体運用による即応性が特徴で、日常的な訓練での連携が必要だ。米軍が県内移設を求めるのもそのためだ。名護市辺野古が移設先となったのは、1950年代から海兵隊基地(キャンプ・シュワブ)と地域ぐるみの関係を築いていたからとされる。普天間返還に関わる政府関係者は「辺野古は海兵隊との付き合い方を知っている。いくつもの場所を検討したが、辺野古以上の移設先はない」と指摘する。【村尾哲】

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