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わが町にも歴史あり・知られざる大阪

人知れず建つ碑や地名などをよすがに、今につながる大阪の知られざる歴史を掘り起こします。

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/438 野田城跡 /大阪

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野田恵美須神社の前の道標の裏面に「弓場」の文字。かつての地名だけが野田城の名残だ=大阪市福島区玉川4で、松井宏員撮影
野田恵美須神社の前の道標の裏面に「弓場」の文字。かつての地名だけが野田城の名残だ=大阪市福島区玉川4で、松井宏員撮影

 ◆環状線・野田

藤も焼かれた戦国時代 淀川押さえる重要拠点

 元の野田恵美須神社(福島区玉川4)に戻る。門前の角に道標が建っている。正面に「左御旧跡御坊極楽寺」とあるのは、すぐ左にある極楽寺のこと。裏面には「弓場(ゆば)」と刻まれている。大阪案内人の西俣稔さんは「それ、野田城を示す地名です」。

 並びに建つ極楽寺の前に「野田城趾」の碑があり、すぐ西の大通り沿いにも「野田城跡」の碑が建っている。野田城とは聞き慣れない。大通りの碑文によると、戦国時代、畿内に勢力をふるった三好一党が築いたとりでで、のちに石山本願寺、さらに織田信長の重要拠点となった、とある。城だったことを示すものは何も残っておらず、全容はよくわからないようだが、明治時代の野田村の地図に、「城之内」という地名が残っており、そこから城の中心と推定されるという。さっきの弓場は、弓の稽古(けいこ)場があった所か。

 野田はその昔、藤の名所として知られ、貴人らが藤をめでに訪れた地だったが、実は戦乱の地でもあり、うち続く戦火で、藤もなにもかも焼き尽くされた。その戦乱の中心となったのが野田城だった。野田は淀川河口の中州で、地理的に淀川を押さえる重要拠点だったのが災いしたともいえる。

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