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Listening

<論点>ハンコ文化、どこへ

 10月1日は「印章の日」だった。社会人なら誰でも1本や2本は持っている「ハンコ」。就職や結婚、家や車の購入と、思えば人生の節目はハンコとともにあった。だが今、行政や銀行の現場で「印を押さない」取り組みが出てきた。窓口負担の軽減、偽造による被害防止など理由はさまざまだが、欧米のサイン文化に負けず、日本が独自に育んできた「印鑑文化」はどこへ行く?【聞き手・尾中香尚里、写真も】

白鳥哲也氏

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認証手段「最善」選ぶ責任 白鳥哲也・りそな銀行常務執行役員

 昨年11月にオープンした豊洲支店(東京都江東区)で、印鑑を使わずに個人口座を開設できるサービスを始めた。現在は豊洲を含め、りそなグループの全国計4店舗で同様のサービスを行っている。

 豊洲支店は店内に入ると、目の前の丸形カウンターに大きなタブレット端末がある。受付では、お客さま自身が取引・相談内容を端末上で選択する仕組みとなっており、銀行の店舗のイメージを覆す店舗づくりとなっている。

 デザインだけではない。例えば、新規口座開設の場合は、今まで紙への記入が必要だった住所や氏名などの情報は、受け付けの際にお客さま自身で端末に入力いただき、窓口の端末に連携されるため、後は運転免許証などの本人確認書類の提示と、生体認証の登録をしていただければ、手続きは完了する。そのため、一般の支店では30分程度かかる口座開設の手続きが、豊洲支店では早ければ10分程度で済む。事務手続きが短縮された分、お客さまにはお金に関する相談を窓口でゆっくりしていただける。

 来年2月から、新規口座開設の際に印鑑をもらわない取り組みのグループ全店への拡大を本格的に始める。3年後をめどに印鑑廃止を目指している。

 多額の公的資金を投入いただいた2003年の「りそなショック」を機に、お客さまサービスを徹底的に向上させるための取り組みを10年以上実践してきた。その一つが「待ち時間ゼロ運動」。お客さまが店頭で伝票を書いたり、印鑑を押したりしなくても済むよう、事務・業務プロセスの改革を進めた。並行して、犯罪対策としてキャッシュカードのIC化にも取り組み、りそなでは生体認証対応のキャッシュカードを導入した。

 銀行に登録された印影と、お客さまが窓口で押した印影が同じものであるかどうかの確認は、コンピューターで照合するとともに、最後は人間の目で確認するため、お客さまをお待たせする一因にもなっていた。ICキャッシュカードと生体認証を用いて手続きを行うサービスの拡大は、お客さまの窓口サービス向上への取り組みであり、「印鑑レス」は、長期間にわたるこうした取り組みの延長線上にある。

 現在、技術革新で、生体認証をはじめさまざまな認証手段が誕生している。銀行にとって最も大切なのは、お客さまの財産をしっかりと守ることだ。生体認証の技術は、誤って他人を認識してしまう確率は何百万分の一だ。いかに安全で便利に銀行を利用できるかを考えて行動し、さまざまな認証手段の中から、最善のものを選ぶ責任がある。

 印鑑を否定するつもりは全くない。むしろ銀行は、長い歴史の中で印鑑にお世話になってきた。本人確認手段として、業務の合理化に資する面があったのだろうと推察する。印鑑は日本の文化だ。印鑑には「私のオリジナル」という意味合いがあり、英語の「スタンプ」とは重みが全く違う。

 文化としての印鑑は、今後も残っていくだろう。ただ、それをどのように使うかは、時代とともに変わっていく側面もあると考える。

本田浩二郎氏

役割は「金印」の昔から不変 本田浩二郎・福岡市博物館学芸課主任文化財主事

 福岡市博物館は7月、1990年の開館以来26年で、入館者が1000万人を突破した。最も有名な展示物は「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印だろう。弥生時代後期に相当する西暦57年、後漢の光武帝が「倭奴国(わのなのくに)」の使者に与えたとされる。江戸時代後期の1784(天明4)年に志賀島(福岡市東区)で発見された、有名な国宝だ。

 常設展示室に入ると最初に、約50平方メートルの真っ暗な部屋に、金印だけが展示されている。3年前のリニューアルの際に作った、金印のための展示室だ。印面約2・3センチ四方、重さ108グラムの小さな金印に、多くの方が見入っている。

 金印は現代の私たちが使う「ハンコ」とは異なり、文書に直接押印するものではない。紙がなかった当時、公文書は木簡や竹簡に書き、行李(こうり)などに入れて運んだ。文書が第三者に開封されるのを防ぐため、行李にかけたひもの結び目を粘土と、「検」と呼ばれる板で封印し、その粘土の上に、送り主を示す印を押したのだ。

 また、金印には直接身につけて官吏の地位を示す役割もあった。中国の古代王朝では、官吏の地位を示す証しとして、印と、印を身につけるための「綬(じゅ)」と呼ばれる組みひもが与えられた。印の大きさや材質、綬の色で、地位の違いが分かる仕組みだった。

 現在私たちは、履歴書を書く時、婚姻届を出す時、家や車を買う時など、人生の節目で印鑑を使っているが、奴国王にとっても、金印を授かったことは人生の一大イベントだった。一小国だった奴国が、大国である漢の後ろ盾をもらい、国際社会で外交デビューした証しだったからだ。使い方は変わっても、印鑑の役割は金印の昔から変わっていない。

 印鑑文化が現代まで続いたのは、日本人の性善説の影響が大きいのかもしれない。本人以外が役所などに印章を持ってきても「悪用していない」という前提に立っていた。今、行政などの現場で「印鑑レス」が進んでいるのは便利である一方、寂しいことだが、人を信じなくなった時代の表れなのかもしれない。

 福岡市をはじめとする自治体でも電子決裁の導入が進められている。庁内のシステムにログインできるのは認証された職員のみのため、押印の必要がない。やがて印鑑文化は、電子決裁などの新たな仕組みに集約されるのだろう。

 だが、電子化が進めば進むほど、膨大なデータが失われた時の反動は大きい。その時、私たちはどうやって自分自身を証明するのだろうか。生体認証といっても、顔認証で出国した人が、海外に長期滞在しているうちに顔立ちが変わり、入国できなかったと報道されたことがあった。何によって個人を証明するかについては、まだ慎重に考えるべき点も多いと思う。

 金印を手にとると、その小ささからは意外なほどの重みを感じる。これが歴史の重みか、と思う。マイナンバーのような味気ない機械的な仕組みを受け入れる一方で、こうした伝統文化を大切にしたい。もしかしたら将来、さらに精巧な印章作りの技術が生まれるなどして、印鑑が見直される可能性もあるのではないか。

「私の証明」暮らしに密着 中島正一・公益社団法人全日本印章業協会会長

中島正一氏

 「印鑑」という名称が一般に浸透しているが、日常で使われているあの小さな物体は、正式には「印章」という。紙に押されたものが「印影」。印影のうち、実印や登記印として公的機関に登録されているものが「印鑑」である。

 私たちは印章を作製、販売する業者の団体だ。6月末現在で1184人の会員がいる。

 バブル期には企業活動も活発であり、起業や組織拡充に伴う押印が多かったが、景気低迷でこうした場面も少なくなった。日常生活でも、かつては出勤簿に判を押す、給料袋をもらう時に判を押すなどが普通に行われていたが、現在は出勤簿はタイムレコーダー、給与は銀行振り込みが主流。さらに行政や銀行などで、押印の手間を省く動きが進んでいる。

 だが、押印がゼロになることはないだろう。日本には印鑑登録制度がある。日本は古代からさまざまな形で印章を使っており、江戸時代は庶民も印章を持っていた。

 戦国武将などが、日本でのサインにあたる「花押」を用いたこともある。だが、多くの武将に同時に文書を送る際には、職人が花押を木材などに写し取って判にして、文書に押していた。その方が早くて正確だったのだ。

 明治維新当初、新政府は公文書に印章とサインのどちらを使用するかを議論したが、同一のサインを何度も書くのは困難だとして、印章を使うことになったと聞く。

 現在も日本では、商取引などの際には実印を用いることが、多くの法律で定められている。押印をゼロにするには、相当の法改正が必要だ。印章は日本の法律に守られていると言えないこともないが、それだけ重要な場面で役割を果たしているとも言えるのだ。

 婚姻届を出す、家や車を買うなど、「印を押す」のは人生の極めて重要な局面だ。「持って行くのが面倒」などと言うのは違うのではないか。

 「印章では本人確認が困難」との指摘もあるが、唯一無二の印章を作るため、当協会は「手彫り」「手仕上げ」という方法を用いる、という自主基準を設けている。熟練した印章職人は、全く同じ大きさと字形の印章を作らないことができるだけの、十分な技量を持っている。

 「スマートフォンで本人確認ができれば便利」という声もあるが、印章はスマホに比べ、はるかに軽く小さい。また、生体認証などでは本人が窓口に行く必要があるが、印章なら、例えば社長の委任を受けた総務や経理の事務員が代理で押印することもできて、非常に便利だ。

 私たちは今後も、自主基準が守られた質の高い印章を提供していくと同時に、最近話題になっているイラスト入りなどデザイン性の高い印影を持つ印章など、新たな需要についても勉強したい。

 人間が一生の間に持つ印章は平均5〜6本。かつては卒業や就職時の記念品に印章を贈ることも多かった。押印とはすなわち「私が私である」ことの証明であると同時に「契約に同意した」という意思表示の役割もある。これからもぜひ、大事に「ハンコ」を使ってほしいと願う。


大手行も印鑑なし口座

 銀行の「印鑑なしで口座開設」は、地銀やネット銀行では以前からあったが、大手行にも広がり始めた。みずほ銀行は2014年、大手行で初めて印鑑を使わずスマートフォンから口座を開設できるサービスを開始。三菱東京UFJ銀行は9月、全国の本・支店で印鑑なしで口座を開設できるようになった。三井住友銀行は来年、印鑑を使わず署名で口座開設ができるサービスを数カ所の支店で試験的に始め、18年度に全店舗に広げる予定だ


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 ■人物略歴

しらとり・てつや

 1959年神奈川県生まれ。88年旧協和銀行入行。りそな銀行システム部長、りそなホールディングスIT企画部長などを経て昨年4月より現職。オペレーション改革部のほか、IT企画部担当も兼務。


 ■人物略歴

ほんだ・こうじろう

 1972年福岡県生まれ。熊本大文学部卒。福岡市役所で埋蔵文化財行政などに取り組み、2010年より現職。博物館では現在、特別展「釣道楽の世界」を開催中(11月6日まで)。


 ■人物略歴

なかじま・しょういち

 1948年東京都生まれ。立教大社会学部卒業。東京都文京区の印章店「印友舎」代表取締役。2007年全日本印章業組合連合会会長。09年に社団法人全日本印章業協会会長。12年に公益社団法人化した。

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