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週刊少年サンデー

異例の宣言文 あだち充と高橋留美子は真意を見抜いた 市原武法編集長に聞く・前編

市原武法編集長のイラスト=小学館提供

 2015年に小学館のマンガ誌「週刊少年サンデー」で、就任したばかりの市原武法編集長が、生え抜きの新人作家の育成を優先する異例の宣言文を掲載したことが話題になった。「編集長が全責任を負う」と宣言した通り、サンデーでは、新人の連載が次々とスタート。しかし同誌の発行部数も苦戦するだけでなく、マンガ誌そのものの部数が減少する“冬の時代”で勝ち目はあるのか。市原編集長に話を聞いた。

◇80年代の「サンデー」と団塊ジュニア

――市原編集長は入社以来「少年サンデー」一筋ですが、子どものころから「サンデー」を愛読していたそうですね。

 はい、読み始めたのは小学4年生くらいからでしょうか。「ジャンプ」も面白かったけど、僕は「サンデー」のほうが好きでした。当時は「サンデー」の第2次黄金時代で、「史上最大部数」と書かれた号が売られていたのを覚えています。

――1983年に史上最大部数228万部を達成。週刊少年誌では2位だった「マガジン」を抜き、トップの「ジャンプ」に肉薄したといいます。

 僕が中・高生のころ好きだったのは「タッチ」「うる星やつら」「ジャストミート」「究極超人あ~る」「B・B」……。後ろのほうには尾瀬あきら先生の「リュウ」(原作・矢島正雄さん)というマンガが載っていたり、村上もとか先生の「風を抜け!」や「ヘヴィ」、吉田聡先生の「ちょっとヨロシク!」とか。今より連載本数は少なかったはずだけど、本当にすごい布陣だったと思います。若い作家も次々と出てくる印象があったし、新人とベテランのバランスも良かった。また、80年代の「サンデー増刊号」が新人の宝庫だったんですよ。島本和彦先生とか安永航一郎先生とか、どんどん新人が出てきて。

――過去のインタビューで、「あだち充がいなかったら小学館を受けなかったかもしれない」と言っていますね。

 あだち先生は僕にとって少年時代のスターです。小学生から中学生の多感な時期にあだち先生の作品を読んだことで、美意識やどう生きるべきかなど、人格形成に大きな影響を受けたと思います。

 また、週刊少年誌で40年近く連載を持っている高橋留美子先生は文句なしに天才ですよね(現在「境界のRINNE」連載中)。「連載をすべてヒットさせている」という空前絶後の人ですから。絵柄、コメディーのセンスなど、どれも素晴らしいですけど、特にキャラクターへの造詣は本当に深い。人間の業を描くことに関しては卓越した人だと思います。

 あだち・高橋って、僕ら団塊ジュニア世代にとって“僕らのもの”だったんですよ。テレビやラジオで「最近、若い人たちに人気の『タッチ』や『うる星やつら』の何が面白いのかがよくわからない」という大人たちの声を聞くたびに、痛快な気分がありました。

 それまでの少年マンガって泥くさい熱血が主流だったんです。家族や身近の大切な人たちのすべてを犠牲にしてもはい上がっていくヒーローが描かれた。それに対して、あだち・高橋が描いたのは「等身大の共感型ヒーロー」。個人の名声や栄光、地位のために家族や大切な人を犠牲にする必要があるのか、世間的評価より愛する人たちとの絆を優先してはヒーローになれないのか、という問いを初めて少年マンガに投げかけた人たちだったと思うんです。

 団塊ジュニアって同世代の数がすごく多いから、部活動のレギュラー争いでも受験でも圧倒的に敗者が多い世代なんですよ。そんな僕たちに向けて、新しいヒーロー像を提示してくれたマンガ家だったんじゃないかと。あのとき以来、少年マンガのヒーロー像ってマイナーチェンジはしていても、大きなパラダイムシフトは起こってないんじゃないでしょうか。

◇マンガ家を世に出すという仕事

――就職活動のとき、出版社は小学館しか受けなかったとか?

 はい。別にマスコミ志望ではなかったので、試験を受けた出版社は小学館だけです。

 中学生のときから「28歳で自分の外食チェーンを作る」と決めていたので、本命は外食産業でした。小学館を受けたのは、「少年サンデー」が好きだったことと「タッチ」がバイブルだったので「あだち充に会えたりするのかな」くらいの、本当に軽い気持ちで。記念受験みたいなもので、受かるとは思ってませんでした。

 で、小学館と外食チェーンのどちらかを選ばなければならなくなってしまいまして、すごくすごく悩みました。で、結論として、「外食の世界は遠回りしてからでもチャレンジできる」と。逆に小学館は倍率もすごかったし、「もう1回受けても入れないだろう。せっかくだから1年間だけ勤めてみて、向いていなければ辞めてしまえばいい」くらいの軽い気持ちで入社したんです。そうしたらさらにありがたいことになぜか希望通り「少年サンデー」に配属されました。

――マンガ編集者として仕事を始めて、どんな感想を持ちましたか?

 初めは何もかもが衝撃でした。作家さんと打合せをすること、ネーム(セリフとラフな絵が入った下書き原稿)のチェックをすることなど、いちいち驚きました。それまで、マンガ編集者の仕事なんて全然わかってませんでしたから。

 最初のトビラなどに書く「アオリ」も、ずっとマンガ家さんが自分で書いてると思っていたんですよ。「やっぱりマンガ家さんは文章もうまいんだなあ」なんて(笑い)。特に僕はアオリが好きで、感動したアオリは雑誌から切り取ってスクラップしていました。あれ、単行本には入らないから。それなのに、「タッチ」で和也が死んじゃったときの名アオリを「オレが書いたんだ」と上司のおじさんに言われたときはすごいショックで!(笑い)

――ハハハハハ!

 そうやって仕事をやっていくうちに、マンガというのは「人間が作っている」っていう当たり前すぎるほど当たり前だけど、すごく大切なことがわかったんです。出版社はマンガというモノを売っているんだけど、編集部の財産は人間しかないんだと。

 あとは「新人作家を育成する」というのも新鮮な驚きでした。学生時代の僕は、一流のマンガ家さんがある日どこからか現れて突然大ヒット作を描き始めると思ってたんです。プロスポーツのように才能はあるけどまだ未熟なプロ志望の「原石」を発掘し、育成・鍛錬して「マンガ家を世に出す」という仕事にすごく魅力を感じました。入社前は向いていなければ1年で辞めるつもりが、配属されて半年もしたら「来世もやりたいな」と――(笑い)。

――念願のあだち充先生の担当になれたのは?

 30歳のときでした。ずっと希望を出し続けていたから、小学館の内定をもらったときより、ずっとうれしかった(笑い)。それから結局11年半も担当をやってしまいました! あれは僕の人生における夢の時間です。

 高橋先生は王道を行く人ですけど、あだち先生は異端の人です。マンガの黎明期(れいめいき)最後の世代でもあり、20代のころは時代と才能のピントが合わなくて、何度連載してもことごとく打ち切られてます。少女マンガや学年誌にも執筆してますし、そうかと思えば60歳をはるかに超えて平然と少年誌で大ヒットを飛ばしたりもする。不思議な少年マンガ家です。

――市原編集長といえば「ゲッサン」創刊を企画したことでも有名です。「ゲッサン」創刊にはどのような意図があったのでしょうか?

 「サンデー」というレーベルで究極の使命は「多くのマンガ家さんを世に出すこと」だと思うんですね。それで28歳のとき、初めて「ゲッサン」創刊の企画を出しました。「週刊」というサイクル以外でも「サンデー」のレーベルで世に出ていける新人作家さんを増やしたかったんです。

 マンガ家さんには週刊連載ができない人っているんですよ。才能があっても物理的にどうしても週刊連載できない。それは持って生まれた執筆スピードの問題なので、本人のせいではないんです。ところが、「月刊少年サンデー」ってずっとなかったんですよ。「ジャンプ」や「マガジン」には月刊があるのに、「サンデー」には増刊しかない。ずっと、それをおかしいと思っていました。2009年に僕が35歳のとき、編集長代理になって創刊しました。

 それから6年間「ゲッサン」をやりました。振り返ってみて言えるのは、間違いなくやって良かったということ。「ゲッサン」でやりたいことは全部やりました。少なくとも、やり残したことはありません。

◇大反響を呼んだ「所信表明」

――そして2015年7月、編集長として古巣の「サンデー」に帰ってきます。7年ぶりに戻ってきて、どう思いましたか?

 新人作家さんの発掘・起用がうまくいってないなと。また、これは「ゲッサン」に行く前から感じていたことですが、「サンデー」という船をどこに導こうとしているのかについて連載作家さんたちとうまくコミュニケーションが取れていないのではないかと思っていました。

 だから編集長になって最初にやったことは、連載作家さんたちと話し合うことでした。僕がどういう方針で「サンデー」を運営していくのか、どういう姿を目指すのか、その中でどういうことをそれぞれの作家さんに期待しているのか。連載している作家さんはもちろん、約300人いる新人作家さんの中から連載に起用できるレベルに達している人も呼んで、ひとりずつ話しました。編集長になって初めの半年は毎日毎日ずっとしゃべりっぱなしで、何度も気管支炎になってました(笑い)。

――就任直後の8月に「サンデー」に載せた所信表明(読者の皆様へ)は大反響を呼びましたね。「今後、生え抜きの新人作家さんの育成を絶対的な使命とします」「少年サンデーの『マンガ』に関わるすべての意思決定は編集長である僕がただ1人で行います。僕の独断と偏見と美意識がすべてです」と。このような編集長の宣言は前例がないことだと思いますが。

 あんなに反響が大きくなるとは全く予想してませんでした(笑い)。あだち・高橋両巨匠は僕の真意を完璧に見抜いてましたけれど、あれは僕が「自分の退路を断った」だけなんです。改革に失敗したら、僕がすべての責任を取りますという表明なので。

 サンデーに帰ってきてから(1年半で)増刊やウェブなども含めると50本近い連載を終了させているんですよ。読者の支持を 得られなかった連載作品をきちんと終了させるのは、編集長の義務であり、重要な仕事です。ただマンガ家さんからすればその決定を誰がしたのかきちんとわかっていなければ、モヤモヤしたものが残ってしまいます。編集長がきちんとその全責任を負うことでマンガ家さんと現場の担当編集者はもう一度、次回作に向けて前向きなスクラムを組めると思うんです。

 それとマンガ編集者は会社員として身分を保証されているのに、マンガ家さんは日々徒手空拳で戦っていらっしゃるんです。「サンデー」という同じチームで改革を進めていくのに、マンガ家さんにだけリスクを負わせて最終意思決定機関である僕が安全な場所に隠れているわけにはいかない、絶対に。同じチームで同じ気持ちで僕も戦っているんです、ということを表明する必要がどうしてもあったんです。

――本当に「サンデー」に載せるマンガの選定をすべてひとりでやっているんですか?

 やっています。もともとマンガの企画というのはできるだけ少ない人数で決定したほうがいいんです。複数の人がそれぞれ違う直しの指示を出すと、2つの直しが矛盾することも多いし、ひとりで決めるほうがスピードも早い。だけど編集長に覚悟がないと、失敗した時の責任を分散したくなるんですね。

 マンガに関しては応募原稿もすべて読み、新連載や終了の決定もすべて僕ひとりで行っています。でもこんなことができるのも、信頼できる副編集長たちが本来僕がやるべきさまざまな編集長業務を代行してくれるからなんです、彼らには感謝してもしきれないです、本当に。そのおかげで僕は「マンガ」にだけ真剣に向き合えるんです。(後編に続く)

小学館のマンガサイト「サンデーうぇぶり」では、6月17日に藤田和日郎さん、6月24日に松江名俊さん、7月1日に小山ゆうさん、7月8日に石渡治さんのロングインタビューを掲載する。

 いちはら・たけのり=1974年、東京都生まれ。成蹊大経済学部卒業。97年、小学館入社。「週刊少年サンデー」編集部に配属され、あだち充、西森博之、満田拓也、田辺イエロウ、モリタイシなどを担当する。月刊誌「ゲッサン」創刊を企画し、2009年の創刊時は編集長代理、翌10年より編集長。15年7月に「少年サンデー」第20代編集長に就任した。

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