1945年8月9日午前11時2分、長崎に落とされた一発の原爆が7万人余の尊い命を奪い去った。あの暑い夏から72年。長崎市の平和公園で9日、平和祈念式典が開かれ、犠牲者を悼む鎮魂の祈りがささげられた。核廃絶を願う被爆者からは、核兵器禁止条約への参加を拒む政府への怒りの声が改めて上がった。
「家族がどのように被爆し、どう亡くなったのか、事実を知りたい」。生後2カ月で被爆した東京都羽村市の岩谷湍(いわや・はやせ)さん(72)は、物心がついた時、両親がいなかった。東京で小学校教諭を長年務め、児童らに命や平和の尊さを語ってきたが、被爆時やその後の記憶はなく、気後れがあった。家族の足跡をたどりたいとの思いも抱きながら、式典に参列した。
岩谷さんは長崎市に住む祖母の元で育てられた。幼い頃、祖母から聞いた話では、両親は長崎駅の近くで薬局を営んでいた。4人きょうだいの末っ子で、暮らしは裕福だったという。
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