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若島正・評 『わたしを離さないで』=カズオ・イシグロ・著

 (早川書房・1890円)

    SF的設定で描く「運命への抵抗」

     カズオ・イシグロの最新長篇『わたしを離さないで』は、わたしたち読者をしっかりとつかまえて離さない。

     物語の現在は、一九九〇年代末のイギリス。三十一歳になるキャシーという女性が、ヘールシャムという全寮制の施設で学んでいたころの過去を回想して語りはじめる。一見するとどこにでもよくありそうな物語の語り出しだが、そのつもりでしばらく読み進めていくうちに、読者はこの小説世界が不思議なアウラをまとっていることに気づく。記憶の中の学園生活という見慣れたはずの景色が、なぜかこれまで一度も見たことのないもののように思えてくるのだ。

     そこでの生活習慣や行事は、わたしたちが知っているものとは似ているようで似ていない。先生たちのふるまいも、どこか奇妙だ。外界との接触を遮断された保護区域のようなこのヘールシャムとは、いったい何なのか? そこに集められている生徒たちは、いったい何者なのか? そして、キャシーが現在就いている職業も、どうやらヘールシャムで暮らした過去と何かつながりがあることにも読者は気づくが、その関係はいったいどういうものか? わたしたちはそうしたもどかしさを感じながら、ページを繰っていくことになる。

     イシグロの前作『わたしたちが孤児だったころ』は、探偵小説の枠組みを借用しながら、私立探偵である語り手が両親をめぐる過去の謎を解き明かそうとこころみる物語だった。そうした小説ジャンルの側面から眺めれば、新作『わたしを離さないで』の基本的な設定はSFにしばしば見られるものである。こうしたイシグロの軌跡は、代表作として知られる、伝統的な英国小説の趣きが濃厚な『日の名残り』から、新しい領域へと脱出しようとする、苦闘の跡として見ることができるだろう。

     しかし、『わたしたちが孤児だったころ』が結局はジャンル・フィクションとしての探偵小説ではなかったように、この『わたしを離さないで』も最終的にはSFの枠内に収まる作品を目指したものではない。SF的に設定されたもう一つの歴史を綿密に構成して描き込み、そこからさらに物語を展開させることは、おそらくイシグロの関心の埓外(らちがい)にある。それはあくまでも、ヘールシャムという小さな世界の謎と、その外にひろがる大きな世界の謎で、読者を物語の中に巻き込もうとする力として機能している。

     わたしたちがすっかり物語に魅惑されてしまうと、謎はすべて、自然にゆっくりと明かされていく。いったん読者がこの不思議な世界のぼんやりとした輪郭をつかんでしまえば、もうそこにあるのは見慣れない世界ではない。イシグロがここで描こうとしているのは、あらかじめ決められた運命を背負わされながらも、その運命に抵抗しようと必死にもがく、語り手のキャシーをはじめとする登場人物たちの姿であり、あえてこの言葉を使うなら、きわめて「人間的」な物語なのだ。

     わたしたち読者とキャシーたちとの仲立ちとして配置されている、キャシーたちに同情と共感を寄せる数少ない人々の存在を助けにしながら、わたしたちは保護された小さな世界から謎めいた大きな世界へと出ていくときの不安を追体験し、キャシーの悲しみと絶望感を分かち合い、壁に頭をぶつけているようなやりきれなさを共有する。そのやりきれなさは、わざとらしい虚構世界の手ざわりではけっしてなく、わたしたちが自由に生きようとしても生きられない、今ここにある現実世界の手ざわりなのである。(土屋政雄・訳)

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