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丸谷才一・評 『夜想曲集』=カズオ・イシグロ著

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(早川書房・1680円)

短篇小説は音楽と夕暮れによく似合う

 短篇(たんぺん)小説集は、普通、ある作家が同じ時期に書いた数篇を集める。ボードレールの詩集『悪の華』あたりの編集法にならって、同じ主題や手法の作品で揃(そろ)え、調和と統一を狙う手もある。その嚆矢(こうし)はジョイスの、アイルランドの首都ダブリンの住民たちの物語十五篇を並べた『ダブリンの市民』か。近くはA・S・バイアットがマチスの絵にちなむ話三篇で『マチス・ストーリーズ』を出した。そしてこのカズオ・イシグロ最初の短篇集は、ミュージシャンが語り手の、音楽にゆかりのある話を並べる作り。

 「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」という副題の通り、哀愁と抒情(じょじょう)が基調だが、イギリス小説の伝統に従って喜劇性とユーモアを忘れず、むしろそのことによって憂愁の味を深める。その作風はなんとなくあの「もののあはれ」を連想させ、この日系イギリス作家の血にはやはり日本文学が流れていると思いたくなる。

 たとえば『夜想曲』は、うだつの上らないテナー・サックス吹きが、マネージャーと妻から、顔の整形をすれば花形になれるとすすめられ、離婚した妻の再婚相手から費用を出すと言われ、手術を受けて超一流ホテルに長期滞在する。隣室にいるのが同じ医師からやはり美容整形を受けている、同じように顔を包帯でぐるぐる巻きしている一流の映画女優で、暇つぶしの下手なチェスの相手をするうちに、彼女の深夜の、ホテルのなかでの散歩の道づれとなって、奇妙な冒険に巻き込まれる。芸能界の滑稽(こっけい)さを、じつにたちの悪い角度から上手にとらえた佳作。

 『老歌手』はもっとわびしい音楽家が語り手。観光客相手に奏(ひ)くヴェニスの「ジプシー」・ギタリスト。正規のバンド・メンバーではなく、助(すけ)っ人(と)の口を探して広場をあちこちと歩きまわる身なのだ。彼がある日、トニー・ガードナー(亡くなった母が大好きだった歌手)を見かけ、話しかけて近づきになる。老歌手が夜、ゴンドラで妻の窓の下に漕(こ)ぎ寄せ、歌うのの伴奏をしてくれと頼まれる。六十男は五十女と離婚する予定でいる。人気の落ちた歌手はカムバックを期すために若い女と再婚するしかないし、妻も今ならまだ然(しか)るべき男を手に入れることが可能な容色だと彼は考えている。これは二十七年の結婚生活の果ての離婚旅行なのだ。開けてある窓のなかで五十女は歌声に感動して泣く。

 わたしが最も感銘を受けたのは最後の『チェリスト』だった。語り手は観光客相手のバンドのサキソフォン吹き。一日に何回も《ゴッドファーザー》や《枯葉》を吹く。ある日、客のなかにかつての同僚、チェロ奏きのティボールを見かける。七年前、彼は若くて有望で、みんなが引立てようとした。ところがアメリカ人の女が彼に目をつけ、おだてあげ、個人教授を買って出たため、のぼせあがって、みんなが苦心して用意したアムステルダムのホテルへの就職を断わった。色事の関係はなかったが、バンドマンたちは当然あると思い込んでいた。そのうちに、大家のはずの女が十一歳以後、チェロを奏いてないことがわかる。ティボールは別の街へ流れて行った。ティボールらしい男が手を振ったので、サキソフォン吹きは自分への挨拶(あいさつ)だと思ったが、ウェイターを呼んだのだった。しばらくすると、その男はもういなくなっていた。若者と老楽士との束(つか)の間の再会を描いてまことに切ない。平凡な老年を迎えようとする平凡な男の人生の一片が切取られ、差出されている。

 短篇小説は音楽と夕暮れによく似合う。(土屋政雄・訳)

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