
社会の分断に「ノー」
日本人の両親の元に「石黒一雄」として長崎市で生まれ、5歳で英国へ移住した日系英国人作家、カズオ・イシグロさんのノーベル文学賞受賞が決まった。一貫して記憶と忘却を書き続けてきたイシグロ文学の魅力を探り、受賞の意義を考えてみたい。
「アカデミー」の近年の意思反映
少年のような目に射抜かれる思いだった。2015年6月、新刊小説「忘れられた巨人」の宣伝のため来日した際にインタビューしたイシグロさんは、斜に構えたり自らを飾ったりしない。常に真っ正面から熱っぽく質問に答え、逆質問すらされた。作品は6世紀ごろのグレートブリテン島を舞台に、行方不明の息子を捜すブリトン人の老夫婦の旅を描く。旅路にはかつて敵対したサクソン人も住んでいるが表面的には平和である。というのも、この世界では人々の記憶に霧がかかっており、少し前の出来事も薄ぼんやりしているからだ。
これは、執筆の動機となったという1990年代のユーゴスラビアやルワンダの大虐殺を伴う民族紛争の隠喩だ。平和に暮らしていたのに、先の世代の対立の記憶をよみがえらせ、隣人同士がむごい殺し合いを始める様に作家はショックを受けたのだ。世界中の読者が我が事として読めるように、あえてファンタジーのような設定にしたのだという。「記憶を失わせている存在を殺して記憶を取り戻すか、あるいは思い出せばまた対立を生むか…
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