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待ち遠しい

/46 作・柴崎友香 題字・画 赤井稚佳

=画・赤井稚佳

前回までのあらすじ

 妻の沙希を思いやるようにと諭すゆかりに対し、拓矢はゆかりの娘が実家に寄りつかないことで非難し、聞く耳を持たない。そこへ沙希の母律子が訪ねて来るやいなや玄関で土下座し、拓矢に向かって「いっしょに子供を育てて」と叫ぶ。


    母にとっての娘

     思わず大きな声が出た。ゆかりが、春子の顔を見た。それから、春子もゆかりも、振り返って廊下の先を見た。

     そこに立つ拓矢は、ぼんやりした表情に見えた。

    「子供?」

     拓矢は、眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、視力の悪い人が目の前のものを確かめるような、見えないものをなんとか見ようとするような、顔だった。

    「沙希の……」

     それから、何秒か置いてから、

    「おれとの、ってことですよね。子供」

     と言った。それを聞いて、春子はまず安堵(あんど)した。まだ二十代のころだったが、当時の職場で仲良くなった子が、恋人に妊娠を告げたところ、一言目が、自分の子供じゃないんじゃないか、だったので、ひどく傷ついていたことがあったからだった。結局妊娠はしていなかったのだが、彼女はその恋人とは別れた。結婚したら子供は三人ほしくて子供との時間をだいじにしてほしいから家にいてほしい、などと彼はことあるごとに言っていたのに、いざ現実になると態度が違って信頼できなくなった、と彼女は言っていた。結婚する前にわかってよかった、とも。最近、SNSで彼女の近況を見たが、沖縄のリゾートホテルで働きながら休日はダイビングや料理をして、楽しそうだった。

     ともかく、拓矢は自分の子供だとは認識したようだ。しかし、問題は、沙希が望んでいない形で、拓矢がそれを知ってしまったことだ。

    「沙希ちゃんは、お母さんには言うてないって」

    「そんなん、わかります。わたしはあの子の母親なんです。すぐわかるに決まってるやないですか」

     律子は、感情的に声を上げ続けた。

    「あの子のことは、わたしがいちばんわかってるんです!」

     そう叫んだあとは、玄関の三和土(たたき)に突っ伏して嗚咽(おえつ)をもらした。肉がたるんだ丸いその背中を、春子はただ見ることしかできなかった。周りの状況も、娘の心情も考える余裕がなく、自分の激情をぶつけるその人に対して、春子はかける言葉をなにも思いつかなかった。

     そして、律子の背中をさするゆかりの目に涙が溜(た)まっているのを、春子は見逃さなかった。律子の心情に共感しているからなのか、沙希の行く末を思いやったからなのか、それとも、自分の家族のことを思ったからなのか、理由はわからなかった。

    「そんなん……、おれに言うたらええのに、なんで……」

     廊下に立ちつくす拓矢は、自分に向かってつぶやいた。春子は、我に返り、なんとか拓矢が誤解しないようにしなければ、と焦った。

    「沙希ちゃんも、すごく動揺してて。初めての経験やし、今、こんな状態やから、どうしていいかわからへんのやと思う」

     拓矢は、春子を見たが、なにも言わなかった。

    「とにかく、部屋に、ね」

     律子を抱え上げたゆかりの目には、もう涙はなかった。律子はやっと立ち上がった。春子も反対側の腕を支え、廊下を歩くのを手伝った。

     居間の椅子に律子を座らせ、今度は春子がお茶を淹(い)れた。律子は、お茶には手をつけなかったが、なんとか呼吸を整え、廊下との境に立ったままの拓矢に向かって頭を下げた。

    「お願いします。沙希は、しっかりしてるように見えるかもしれへんけど、そんなに強くないんよ。わたしが言うのもなんやけど、子供には父親が必要やの。うちみたいな、苦労させたくない」

     拓矢は、ああ、とか、ええ、とか曖昧なうめきのような声を返すだけだった。

    「沙希ちゃんは、拓矢くんには自分で話したいって言うてたんです。体調が落ち着いたら連絡するつもりで」

     春子は、言葉を選び、拓矢の様子をうかがいつつ言った。律子はさきほどよりは落ち着いたが、目も鼻も真っ赤にして、すすり上げてる。

    「そうですか。でも、あの子は、気が強いように見えて、肝心なことは全然話さへんとこがあるでしょ。わたしが言うていかんとあかんのや、あの子のためや、ってわたしも自分に言い聞かせてるんです」

     律子が、沙希のためになんとか事態を打開しようとしていることは、春子にも理解できた。しかし、沙希がなにを思っているか、沙希がどうしたいのか、律子はわかっていないように思った。いや、わかろうとしていない、と。今までもそうだった。子供のころからずっと。

     沙希は、自分の気持ちを人に伝えることを、どこかであきらめている。

    「とにかく、沙希ちゃんと話さないとはじまらないわよ」

     ゆかりは、少し明るい声を出して、立ち上がった。

    「電話してみようかしら」

     時計を見ると、もう午前一時を過ぎている。縁側から黄色い家を確認すると、二階の窓の灯(あか)りは、やはりつけっぱなしのようだ。

     ゆかりと春子は、通話ではなく、携帯電話にメッセージを送ってみることにしたが、返事はなかった。

     沙希は、母屋で拓矢と律子が顔をつきあわせているとは思いもよらないで眠っているのだろうか。それとも、なにかしら起きていることには気づいていて、かかわりたくないのだろうか。

    「お母さん、疲れていらっしゃるでしょうから、うちで休んでいかれたら。拓矢くんも。ね。二階の部屋もこっちもあいてるし、布団もね、やたらとあるのよ。今まで使うことなかったから、きれいだし」

     ゆかりの提案に、部屋をうろうろ歩き回っていた拓矢はすぐに答えた。

    「おれは、車で寝ます」

     玄関側は袋小路になっているので、車を停(と)めっぱなしにできた。

    「朝、沙希が出てけえへんかったら、とりあえずそのまま帰りますから」

     腫れたまぶたの下の虚(うつ)ろな目で、律子は拓矢を見上げた。

    「お母さん、おれはいつでも話聞くから、って、沙希に言うといてもらえますか」

     そう言い残して拓矢が出ていったあと、律子はしばらく、放心したように、椅子でじっとしていた。ゆかりと春子も、かける言葉を思いつかず、そして短い時間の騒動に疲れてもいたので、テーブルを囲んで、黙ってお茶を飲んだ。

     壁に掛けた時計の中で、金色の振り子が音もなく揺れていた。あの時計はゆかりが東京で住んでいた家でも掛けていたものだろうかと、春子はふと思った。ゆかりと夫との暮らしを見ていたのだろうか、と。

     外は変わらず静かだった。なんの物音も聞こえてこなかった。こんな時間まで起きていたのは春子は久しぶりだったが、眠くはなかった。律子が少し落ち着いたようなので、春子は、言ってみた。

    「あの、律子さん」

     律子は、疲れた顔を上げた。

    「沙希ちゃんから聞いたんですけど、その、沙希ちゃんのお父さんからお金を送ってもらってたって……」

    「……やっぱり、沙希が出てった理由はそれなんやな」

     律子は、大きくため息をついた。ゆかりは、少し意外そうに目を見開いた。

    「仕方なかったんですよ。お金もらうのも、それを沙希に黙ってたのも」

     律子は、テーブルの上のティッシュを取り、目の下を拭いた。前に会ったときよりも年を取ったように、春子には見えた。

    「あの人は、沙希を叩(たた)いたり怒鳴ったりして、沙希は怖がってたから、二度と近づけたくなかった」

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