- ツイート
- みんなのツイートを見る
- シェア
- ブックマーク
- 保存
- メール
- リンク
- 印刷

米軍による原爆投下から半年後と1年後の広島を撮影した毎日新聞の写真計25枚は、にぎわう露店や建設中の簡易住宅など復興の息吹を捉えていた。爆心地近くで犠牲者を悼む人々も写しており、混乱のさなかにも慰霊の場を求めた市民の思いがにじみ出る。一部を紹介する。
被爆から1年 祈り 空腹 命つなぐ
戦後は平和記念公園に整備された広島市中島本町(現中区)で1946年7月に撮影された写真には、梵字(ぼんじ)の入る卒塔婆の前で手を合わせる女性らの姿があった。本格的な復興事業に先駆けて建てられた「広島市戦災死没者供養塔」で、傍らには建設中の礼拝堂が写っている。

広島新史歴史編(84年)によると、写真の供養塔(高さ約6メートル)は46年5月、被爆直後は臨時火葬場だった慈仙寺(後に広島市内に移転)の境内に市が建立した。被爆1年後の8月6日、完成した礼拝堂で、市や各宗連盟県支部などが共催した追悼の行事が営まれた。この時、読経した慈仙寺前住職の梶山仙順さん(95)=同市中区=は「市役所の担当課長が一周忌に間に合わせるため関係先を駆けずり回った」と証言する。
梶山さんは所属していた陸軍部隊が四国に駐留したため被爆を免れたが、帰らぬ人となった父を継いで住職に就いたばかりだった。配給による統制経済の破綻で食糧難にあえぎ、4人の弟妹が自分の双肩にのしかかっていた。供養塔の近くにバラックを建てたが、「いかにして食べるか」に悩む日々だった。
そんな戦後にあって数千人を集めた追悼行事の精神は、47年8月6日に広島市が主催した「第1回平和祭」に引き継がれる。13歳のとき平和祭を見た浜井徳三さん(83)=広島県廿日市(はつかいち)市=は慈仙寺の近くで理髪店を営んでいた両親を原爆で失い、親戚宅に身を寄せていた。生まれ故郷は木々が茂る公園に整備されたが「父を殺され、母を消された墓場だ」と語気を強める。

写真の供養塔は55年、約50メートル北寄りに土を盛った現在の形となり、内部には7万柱に及ぶ身元不明や引き取り手のない遺骨を納める。今も原爆の日には、平和記念式典とともに欠かさず慰霊祭が執り行われている。


被爆半年 復興の息吹

被爆半年後の1946年2月に撮影した写真は、建設中の住宅群も写していた。爆心地に近い広島市基町(現中区)の旧軍用地に建てられた公営住宅だが、戦後経済の混乱は生活の再建に踏み出していた街にも影響していた。

46年度の市勢要覧などによると、被爆時に約35万人だった広島市の人口は一時14万人を割り込んだが、8カ月後の46年4月に17万1000人まで回復した。原爆で半壊・半焼以上の家屋は9割に達し、住宅建設は重要課題だった。
しかし、物不足が生んだ猛烈なインフレが立ちはだかる。木材価格の高騰で、住宅営団が売り出した組み立て式の住宅セットは品薄に。46年9月までに完成した市営住宅も200戸に過ぎなかった。生活再建の軸となる住宅がほぼ整うのは、広島平和記念都市建設法の成立(49年)に朝鮮戦争の特需が続いた50年ごろまで待たねばならなかった。

一方、写真が撮影された46年2月までに市民が独力で建てたバラックは約5000戸に及び、飲食店が相次いで建ち並んだ。価格統制された配給が遅れ、広島駅前では自由価格で物を売買するヤミ市がにぎわった。

写真は、広島平和記念資料館(原爆資料館)と高野和彦・広島市郷土資料館長、日本路面電車同好会中国支部代表の加藤一孝氏に検証を依頼しました。
この特集の取材は平川哲也(大阪社会部)、山田尚弘(広島支局)が担当しました。