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広島原爆アーカイブ

今も現役の被爆電車 復興期に市民運ぶ

被爆から1年の広島駅舎屋上から南東を撮影(上下2枚つなぎ)。たくさんの人が電車を利用している。画面左端中央の地面が掘り返された部分は、かつて広島駅電停(終点)に向かった線路がはがされた跡。線路は途中でカーブし北方向・駅の正面まで延伸し、広島駅電停(終点)が移設された。南から走ってくる電車は、江波終点付近で被爆(1946年3月復旧)した156号。現在も江波車庫に保存されている。画面左は、中国配電本店前付近で被爆し、現在も「被爆電車」として活躍している651号(1946年3月復旧)。その右隣は、御幸橋付近で被爆した207号(1945年11月復旧)。右から2両目は、資材などを運ぶための無蓋電車の102号。正面は黄金山=広島市松原町(現広島市南区)で1946年7月24日ごろ ※広島平和記念資料館(原爆資料館)と高野和彦・広島市郷土資料館長、日本路面電車同好会中国支部代表の加藤一孝氏の検証による

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 原爆投下から1年後の広島市街地を捉えた毎日新聞の収蔵写真に、広島電鉄が現役で使用している路面電車が写っていた。「被爆電車」として運行する3両のうちの一両で、被爆の惨禍と戦後復興の記憶を宿した電車は、今も市民の足として街を走っている。

 1946年7月に広島駅屋上から写した一枚で、広島平和記念資料館(原爆資料館)と日本路面電車同好会中国支部の加藤一孝代表が検証した。屋根のない貨車を含む7両のうち最も左に写る車両に「651」の番号があり、爆心地の南約700メートルを走行中に被爆した「650形651号」と確認された。

 広島電鉄によると、650形(全長12.38メートル)は42年に大阪で5両が製造され、651号は46年3月に復帰した。広島電鉄では太平洋戦争中、軍に応召した男性従業員に代わり女学生が運転士や車掌を務めた。被爆時15歳だった増野幸子さん(87)=広島市中区=は650形を何度か運転したといい、「モダンな車両は私たちの憧れだった。末永く走り続けてほしい」と話した。【平川哲也、山田尚弘】


惨禍くぐり抜けた路面電車

市街地を走る被爆電車の651号=広島市南区で2017年12月3日、山田尚弘撮影

 原爆の惨禍をくぐり抜け、今も走る広島電鉄(広島市中区)の路面電車「被爆電車」。被爆半年後の広島を撮った毎日新聞の写真には、現在も活躍する650形を捉えた1枚もあった。軍に応召した男性従業員に代わり、運転士を務めた増野幸子さん(87)=中区=は「戦中戦後の苦楽がよみがえるよう」と話している。【平川哲也、山田尚弘】

従業員不足で憧れの運転士に

被爆から半年後の広島駅(左奥)付近。左には闇市に連なる露店が広がっていた。写っている電車は652号とみられる=1946(昭和21)年2月撮影

 シュッ、シューッ。エアブレーキを緩める際に圧縮空気が抜ける音をまね、写真を見た増野さんが笑った。「青春でしたね」。広島駅を望む1946年2月撮影の1枚には、丸みを帯びたモダンな車体の650形が写る。650形は太平洋戦争開戦翌年の42年に大阪の木南車輌(きなみしゃりょう)が5両を製造し、651~655号の車番が振られた。写真は652号とみられる。

 増野さんは広島県北部の農家生まれ。制服姿の運転士は憧れだった。「いつか運転したい」。夢は図らずも戦争で実現する。政府が兵員を増強した43年、広島電鉄は女性の車掌を養成する「家政女学校」を開校した。1期生のいとこに続き、増野さんは44年に14歳で入学した。白いシャツの襟が映える黒地の制服がまぶしかった。

 寮で生活し、2交代制で授業と乗務に励んだ。混雑時は乗客をかき分けて切符を売り、集電装置が外れると竹ざおで直した。

 恋もした。学生服の少年は電停で時間をつぶし、増野さんの姿を見ると電車に飛び乗った。無言で向き合う車内の時間が、永遠に思えた。

 出征する男性従業員がいよいよ増えると、運転士になった。数回乗ったという650形のエアブレーキは旧形より利きがよかった。「シュッ、シューッと空気を抜くの。誇らしかったものですよ」。だが、そんな増野さんにも運命の日は来た。

「私、電車を運転していたの」

広島電鉄家政女学校時代を振り返る増野幸子さん=広島市中区で2017年12月5日、山田尚弘撮影

 45年8月6日朝、腹部に激痛を覚えて広島市皆実町(現南区)の寮で寝ていた。地響きを伴うごう音。目覚めると、右足と背中がひどく熱い。寮に火が回り、肩を借りて広島の街を逃れた。ガラスの刺さった背中から赤い血が滴る。泣いた。乳児を抱いたまま電柱の下敷きになった女性や焼けた電車を見た。腹痛も重なり、たどり着いた避難先で突っ伏したまま気を失った。

 広島電鉄は原爆投下の当日だけで女生徒を含む従業員185人が犠牲になった。被災車両は108両に及んだが、3日後の9日には一部区間で運行を再開させた。毎日新聞の写真を検証した日本路面電車同好会中国支部の加藤一孝代表は「どんな状況でも日常を取り戻そうとする、人間の本能がそうさせたのでないか」とみる。宇品(現南区)で被災した652号も8月中に復旧した。

 しかし、増野さんが運転台に立つ日は戻らなかった。郷里で傷が癒えた45年秋、訪ねた広島電鉄で言われた。「女学校は解散したよ」。後の2年は車掌を務めたが、「あっけない青春でしたね」と振り返る。

 「戦争は嫌ね」。そう思う一方、増野さんの手にはエアブレーキの余韻が残る。今も3両が走る650形を見かけては、言ってみたくなる。「私、電車を運転していたのよ」――。


 毎日新聞のニュースサイトに開設した「広島原爆アーカイブ」で、被爆半年後と1年後に撮影された写真25枚と関連記事を公開します。

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