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好きに食べたい

熱々のブラウンシチュー=服部みれい

 12月と1月がものすごく苦手だ。正直にいうとクリスマスやお正月が苦手なのである。できれば何ごともないかのように過ごしたいが、毎年うまくいかない。クリスマスとなればそれらしい料理をつくってしまうし、お正月とてしかり。でも流されやすい自分とは相反して、世の中にはマイペースを貫く人もいる。思い浮かぶのはレイコさんのことだ。

     あれはもう10年以上前のお正月のこと。わたしは、元日の真っ昼間、打ちひしがれて東京の早稲田にある夏目坂を大粒の涙をこぼしながら歩いていた。世間では、平穏なお正月真っただ中であるのに、わたしはといえば、当時の生活の何もかもがうまくいかず、ある大切な場所から勇気を出して家出したのだった。「人生でこれ以上ひどいお正月もあるまい」。これからは上がるしかないんだワ、と泣きながら自分を励ました。行く先はレイコさんのお宅だ。

     レイコさんは、ふたりの子どもの子育てをとっくに終え、高齢の母親を見送り、ひとりで暮らしておられた。そのお宅は瀟洒(しょうしゃ)な一軒家で、花森安治さん時代の『暮しの手帖』を地でいくような暮らしぶりがそれはすてきだった。うつくしく整えられたキッチン。居心地のよさそうな椅子とテーブル。なにせ趣味がよかった。明るすぎない素朴な部屋でレイコさんはさりげなく迎えてくれた。

     そう、忘れもしない、レイコさんの家には、お正月だというのに、ひとつもお正月のものがなかった。黒豆も田つくりもなかった。部屋中見渡せども、おせちの「お」の字もお正月飾りもなかった。レイコさんは、ふだんと変わりなく、その日は熱々のブラウンシチューをつくっていて、わたしに出してくれた。シチューの熱さが身にしみた。ヨーロッパのどこか森の中で老練の魔女と向かい合っているみたいだった。食後はウィーン・フィルの演奏をテレビで観(み)た。ラデツキー行進曲がはじまるとわたしたちも、手拍子をした。軽快で晴れやかな行進のメロディーに反して、自分の身がふがいなく、また涙がこぼれた。2階に設(しつら)えてくださったベッドには、そっと湯たんぽが入っていた。レイコさんのやさしさに、お布団に隠れてまた泣いた。

     レイコさんは、今、米国のオハイオで娘さんご家族と住んでいる。八十ウン歳になった今も、英和辞典を引きながらミステリーを愛読しているとか。お正月になると、あのレイコさんの熱々のシチューを思い出す。お正月っ気がひとつもなかった暖かでおだやかなあの部屋が、わたしを心底癒やしたことも。(文筆家)

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