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第103回全国高校野球選手権

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駆け抜けた1世紀

センバツ90/1 第4回大会(1927年)和歌山中 懸け橋の夢、託した杯 日系排斥、北米に親善の礎

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第1927年7月、カナダ・バンクーバーで日系人と記念撮影する和歌山中ナイン。中央のトロフィーは今も桐蔭高校で保管されている。最前列左から5人目が小川正太郎氏、前から2列目の右から4人目が花月栄吉氏=同校提供
第1927年7月、カナダ・バンクーバーで日系人と記念撮影する和歌山中ナイン。中央のトロフィーは今も桐蔭高校で保管されている。最前列左から5人目が小川正太郎氏、前から2列目の右から4人目が花月栄吉氏=同校提供

 <2018 第90回記念選抜高校野球>

 「選抜の主催者は毎年若い人を海外へ送り、このカナダを第一の玄関口としてほしい」。1927年7月21日、カナダ・バンクーバーにある日系人レストラン。カナダ日本人会の花月栄吉会長(当時43歳)は、北米チームと親善試合を重ねていた和歌山中(現桐蔭高)の歓迎会で、スポーツを通じた国際交流の継続に期待を込めた。

和歌山中のエース・小川正太郎氏 拡大
和歌山中のエース・小川正太郎氏

 和歌山中は、後に「早大の至宝」と呼ばれるエースの小川正太郎氏を擁し、この年の第4回センバツで広島・広陵中の2連覇を阻んで初優勝。二塁手の土井寿蔵氏は後に「勝利を喜び合ったあの一瞬は今でも目の前に浮かんで来る」と書き残す。そして、副賞として初めて企画されたのが北米見学旅行で、バンクーバーは最初の訪問地だった。

 花月氏ら和歌山県出身の日系人は、郷里から来たナインを熱烈に歓迎した。小川氏は「あらゆる日本料理で温かく迎えてくれた」と懐かしんでいたという。

 ただ、日系人の期待の大きさは、彼らの苦境も物語っていた。林業や漁業で成功を収める人が多かったが、「仕事が奪われる」と、白人労働者を中心とした日系人の排斥運動が広がっていたからだ。

 ナインは日系人が多かったカナダ、米国の西海岸で地元の高校、セミプロのチームと計5試合を行い、ゲームセット後は両国の選手らと語り合った。「野球を通じて若者同士が理解しあってほしい」。花月氏によるセンバツ主催者への派遣継続の呼びかけには、切実な思いがあった。

 だが、日米関係の悪化で見学旅行は5年後に廃止。41年の真珠湾攻撃でカナダも日本に宣戦布告。花月氏ら日系人は内陸部への強制移住、財産没収と苦難の道を歩むことになる。

 小川氏は戦後、アマチュア野球団体の設立やチーム育成などに携わる。とりわけ力を入れた活動の一つが、スポーツを通じた国際親善だった。社会人チームの海外遠征に何度も同行し、米国チームの遠征受け入れにも奔走。70歳で亡くなった翌年の81年、野球殿堂入りした。長男の拡(ひろし)さん(76)は言う。「父は常に野球を通じ何ができるか考えていた。その原点の一つが北米渡航だったのかもしれない」

 花月氏も日系人コミュニティーの再生に尽力した。林業で築いた財産をほとんど失ったが、戦後はゼロからスタートし、英王室から表彰された。83歳で亡くなるまで、日加の橋渡しを続けた。四女のタカコさん(97)は「日系コミュニティーに対する父の貢献をとても誇りにしている」と話す。

和歌山中ナインにバンクーバーで贈られたトロフィー。英語で「センバツ勝者として訪れた記念に、在カナダ和歌山県人から和歌山中学野球部に贈る」と記されている=和歌山市の桐蔭高校で、青木純撮影 拡大
和歌山中ナインにバンクーバーで贈られたトロフィー。英語で「センバツ勝者として訪れた記念に、在カナダ和歌山県人から和歌山中学野球部に贈る」と記されている=和歌山市の桐蔭高校で、青木純撮影

 ナインに花月氏から手渡された記念トロフィーが、和歌山市の桐蔭高の校内で保管されている。「古里の球児を喜ばせたい」。和歌山県出身者たちがバンクーバー中を探し回って調達してきた60センチの大型のものだ。海を渡ったセンバツ球児が、国際親善のメッセンジャーとなった証しとして、今も後輩たちを静かに見守っている。

  ◇

 第90回の記念大会となるセンバツは、1924年の第1回から太平洋戦争による中断を経て、100年近い歴史を刻んできた。激動や混迷の時代、球児たちは何を思い、春の舞台はどんな世相を映し出したのか。「駆け抜けた1世紀」をたどる。=つづく


 ▽決勝

和歌山中 013000400=8

広陵中  011000100=3

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