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第103回全国高校野球選手権

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三重高野球の源流 1969春/上 守り抜いたマウンド 県勢初、紫紺の優勝旗 /三重

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49年前のセンバツ優勝時を述懐する上西紘暉さん(右)と村井洋児さん=名古屋市内で 拡大
49年前のセンバツ優勝時を述懐する上西紘暉さん(右)と村井洋児さん=名古屋市内で
県勢初となる紫紺の優勝旗を受け取り、優勝メダルを胸に下げる三重高の選手たち=兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で1969年4月6日 拡大
県勢初となる紫紺の優勝旗を受け取り、優勝メダルを胸に下げる三重高の選手たち=兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で1969年4月6日

 その瞬間、総立ちのアルプス席から幾筋もの白いテープが舞い降りた。創立9年目、センバツで一度も勝ったことのなかった三重高が3度目の出場で、県勢で初めて紫紺の優勝旗を抱いた。翌日の毎日新聞(大阪本社発行)1面は「六万の観衆がどっとゆらいだ」の書きだしで、興奮を伝えている。1969年4月6日、快晴の甲子園で成し遂げた快挙だった。

 鳴り響く校歌を聞くエースの上西紘暉さん(66)の顔に表れたのは歓喜というより、安堵(あんど)に近い。実は体は悲鳴を上げていた。前年夏の合宿で右足首を骨折した。時間を要する本格的治療は「野球人生後」と決めこみ、復帰を急いだため、痛みが残った。かばって投げるうちに痛みは右ひじにも転じ、慢性化していた。「大会中、上西君が満足に投げた球は一球もなかったはず。無理をさせてしまった」。戦後のセンバツ史上最年少22歳の優勝監督となった村井洋児さん(71)は振り返る。

 高度経済成長期で、朝から晩まで帰宅せずに働く「モーレツ社員」が流行語となっていた。アルプス席では、根性で鍛えぬく野球の人気アニメ「巨人の星」の曲が演奏された。痛みも弱音も胸に閉じ込めるのが、当時の美学だった。上西さんも足首にテーピングをし、淡々とマウンドに立った。

 177センチの長身から振り下ろす右腕と同時に深く腰を折る豪快なフォームだが、痛みを抑えるため「打たせて取る」ことに徹した。12-0で完封勝ちした堀越高(東京)との決勝も奪った三振はゼロ。緩急でタイミングをずらし、凡打の山を築いた。決勝までの5試合、ほぼ一人で投げ抜いた。

 捕手で主将だった中田和男さん(66)が言う。「けがは治ったと思っていた。故障していると言ったら、試合に出られないから、バッテリーの僕にさえも痛むことを言っていなかったんだろう」

 あれから半世紀。上西さんは愛知県日進市で一人で静かに暮らしている。子供たちは独立し、妻は3年前に亡くした。

 上西さんは三重高卒業後、中京大(名古屋市)まで野球を続けたが、その後はプロゴルファーに転身した。今も週4日、アマチュアゴルファーたちを指導している。「僕はいつも『前進あるのみ』だと思っている。ゴルフを始めたのも新しいことに挑戦したかったから」。痛みと闘った春を自ら思い起こすことはないが、あの時と変わらず、勝ち気な瞳を宿している。

 スポーツ医科学が発達し、根性論は過去のものとなった。休みなく練習を強いれば「ブラック部活動」とも批判される。上西さんの「熱投」は、今のご時世では、美談とはなりえないだろう。

 だが上西さんがたどりついた真理がある。「一人一人が強ければ、どんな相手にでも勝てる。野球は9人のスポーツだが、一人一人に独立した強さが求められる」【森田采花】

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 三重高が4年ぶり13回目のセンバツ出場を決めた。全国制覇した49年前の優勝チームから「三重高野球の源流」に迫る。

〔三重版〕

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