特集

第94回センバツ高校野球

第94回選抜高校野球大会の特集サイトです。阪神甲子園球場での熱戦全31試合をLIVE配信します。

特集一覧

真剣味

三重高野球の源流 1969春/中 失敗を恐れぬ走塁 「村井野球」気質今も /三重

  • ブックマーク
  • 保存
  • メール
  • 印刷
【三重-堀越】一回表三重1死満塁、上村和洋選手のスクイズで三塁走者に続き、二塁から一気に生還する村田宗治選手(左)=兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で1969年4月6日 拡大
【三重-堀越】一回表三重1死満塁、上村和洋選手のスクイズで三塁走者に続き、二塁から一気に生還する村田宗治選手(左)=兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で1969年4月6日

 <第90回記念選抜高校野球>

 桜の開花が遅れた肌寒い春だった。本命が次々に敗れる波乱が続いた1969年のセンバツを制したのは「失敗を恐れぬ走塁」を貫いた三重高だった。初戦から決勝まで、鍛え抜いた果敢な走塁で甲子園を席巻した。

 1回戦は開会式直後の第1試合。緊迫した開会式の余韻が残る中、盗塁を7度試みて6度成功し、向陽高(和歌山)をのみこんだ。堀越高(東京)との決勝は一回、三塁走者に続き、二塁走者も本塁に突入する奇襲「ツーランスクイズ」を敢行し、流れを引き寄せた。

 「どんな状況でも常に次の塁を狙え」と采配を振ったのは、22歳指揮官の村井洋児さん(71)だ。中京大3年だった67年12月、監督に就任した。母校の強豪・中京商高(現・中京大中京高)の指導に携わっていた縁から声が掛かり、大学に通いながら指導すること1年半足らずで、全国の頂点へ導いたのだ。

 「足で稼ぐ」は戦略であり、必然でもあった。61年の創部から間もない時期。グラウンドはまだ砂利も多く、水はけも悪かった。時間を惜しんで昼休みにトンボで整地し、雨が降れば、スコップで深さ1メートルの溝を掘り、水を抜いた。部の予算も少なく、木製バットは多くはそろわず、竹バットで代用し、手をマメだらけにしていた。

 全国の強豪に環境で及ばずとも、同等に鍛えられるのが「足」だった。とっぷりと暮れた学校周辺の坂道を駆け上がり、時には野山に分け入り、一日中走った。

 諭すおやじタイプの前監督、榊原敏一さん(83)が築いた礎の上で、力で引っ張る兄貴分タイプの村井さんの指導が実を結んだ。「選手も監督も若かったから、隙(すき)あらば攻める戦術がぴったりはまった」と、エースだった上西紘暉さん(66)は振り返る。

 堀越高との決勝を7盗塁で締めくくり、翌日の毎日新聞運動面には「“速攻の三重”栄冠がっちり」と見出しが躍った。ただ、その速攻は多くの失敗の上に成り立っていた。村井さんが述懐する。「あの大会は5試合で、8度もけん制球で刺されてアウトになっていた。普通なら怒るんだろうけど、失敗を恐れず戦う姿はほめたかった」

 村井さんは三塁手だった中京商高3年の夏、自らのまずい守備で甲子園出場を逃した。その苦い経験が指揮官に転じた時、度量を大きくしていたのかもしれない。

 県勢初のセンバツ制覇から2カ月後、驚きの決断が待っていた。村井さんが自ら監督を降りた。22歳にして、はるか大きな夢をかなえた後に残ったのは虚無感だった。「高校野球の監督に対する興味をなくし、目標も見失ってしまった」。自動車部品製造会社(愛知)に就職し、野球から離れた。いつだったか指導者として誘われたが、うなずくことはなかった。

 一瞬にして大輪の花を咲かせた「村井野球」。失敗を恐れぬ豪胆な気質は、半世紀を経た今の選手たちも、まとっている。【森田采花】

〔三重版〕

関連記事

あわせて読みたい