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第103回全国高校野球選手権

第103回全国高校野球選手権大会(8月10~29日)の特集サイトです。

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第90回選抜高校野球

勇気届けて90回、希望のセンバツ(その1) 第78回大会出場 大リーガー・前田健太投手

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インタビューに答える前田健太投手=大阪市中央区で2017年12月28日、川平愛撮影 拡大
インタビューに答える前田健太投手=大阪市中央区で2017年12月28日、川平愛撮影

 <毎日新聞創刊146年 夢をつなぐ・こころがつながる>

 1924(大正13)年に始まった選抜高校野球大会は今年、90回の節目を迎える。関東大震災の発生から半年後に始まったセンバツは、戦争による一時中断や、阪神大震災、東日本大震災などを乗り越えながら、数々の名勝負を生んできた。大会を主催する毎日新聞は1872(明治5)年2月21日に東京日日新聞として創刊して以来、スポーツをはじめとするさまざまな事業を通して人々の夢をつないできた。記念大会を前に、センバツ名場面を振り返る。


明確な目標、自ら重圧 プロ夢見たPL時代

 米大リーグのロサンゼルス・ドジャースの前田健太投手(29)は、センバツ第78回大会(2006年)でPL学園(大阪)のエースとして4強入りに貢献した。プロ野球・広島を経て、世界へと活躍の舞台を移した前田投手に、「プロ野球選手になる」という夢をつなぎ続けた高校時代を振り返り、センバツの思い出を語ってもらった。【聞き手・浅妻博之】

 --PL学園を選んだ理由は。

 ◆プロ野球選手になるための一番の近道がPL学園に進学することだと思っていた。常に目標は明確だった。中学生の頃からどの高校にいけば最も成長できるかを考え、親元を離れて寮生活で成長できる厳しい場所を求めた。「甲子園に行ける高校」を選んだわけではなかった。

 --どのような目標設定をしていた。

 ◆目標があればどんなつらいことでも頑張れる。そのために目標を大、中、小と分けていた。最大の目標はプロ野球選手になること。中間の目標は1年間でどのぐらい球を速くするか、など。小さい目標は、1日の練習でどのぐらい頑張るか。プロになりたいという大きい目標がぶれなかったから、しんどい練習も乗り越えられた。

 --高校1年夏からベンチ入り。打撃でも野球センスを見せ、「桑田2世」とも呼ばれた。

 ◆1年生でいきなり背番号11をもらって甲子園にも出場できた。プロで野球がしたいとばかり思っていたので、正直言うと最初はあまり甲子園に興味がなかった。しかし、甲子園のマウンドに上がってみてその思いは一変した。

 大歓声の中で今までにないほどふわついて、地に足がつかない状態で自分の力を出せず、悔いも残った。でも甲子園ってすごいところだと感じたのは今でも覚えている。その後は甲子園に出たいという執着心がすごく強くなった。1年秋には背番号1をもらって注目されるようになり、自信にもつながった。

 --1年時から140キロを計測した。

 ◆球速へのこだわりは高校時代から強かった。1年夏の地方大会前の練習試合で1球ぐらい140キロを計測しただけなのに、「140キロ右腕」みたいに新聞に書かれて、勘違いしてしまったこともあったかもしれない。150キロを投げられればプロ野球に入れるという考えがあったので、150キロを目標にしていた。

 --高校で最も成長した時期は。

 ◆3年春のセンバツを前にした、2年生の冬が一番成長できた。秋の近畿大会でベスト4に入り、甲子園に出場できるかもしれないという思いから、冬の厳しい練習にも耐えられた。1年夏の甲子園は初戦(2回戦)敗退だったので見返したいという思いの一方で、次の甲子園では失敗できないという重圧もあった。それまで冬場は走り込み中心だったが、その年はウエートトレーニングも取り入れた。その結果、常時140キロ近くまで出るぐらいになり、甲子園では最速148キロが出た。

 --センバツで印象に残っている試合は。

 ◆3年春の愛知啓成との2回戦。わずか1時間28分、1-0の完封勝利だった。プロ野球選手になるために自分の力を認めてほしいとの思いで一生懸命投げていたので、完封できたのはすごくうれしかった。1-0は投手にとって究極の試合。いい経験になった。次の準々決勝の秋田商戦でホームスチール(本盗)を完璧に成功させたのも印象深い。

 --伝統のあるPL学園のエースには重圧ものしかかった。

 ◆PL学園は勝って当たり前だった。常に勝たないといけない雰囲気で、重圧には慣れていた。試合で本塁打を打っても、バントを成功させてもガッツポーズはしない。相手への敬意もあるし、試合はまだ終わっていないという思いもあったから。どんな時でも自分に重圧をかけられるかが大事だった。試合で四球を出せば、一つにつきグラウンド10周走ると課して、絶対に出さないようにしていた。

 --高校卒業後はプロ野球高校生ドラフトで広島から1巡目指名を受け、「プロ野球選手になる」という夢をかなえた。

 ◆プロでも(最多勝、最優秀防御率、最多奪三振のセ・リーグ投手3冠、ノーヒット・ノーランという)成績を残し、米大リーグにも挑戦して着実にステップアップできた。

 --今は高校時代から米大リーグを目標に掲げる球児も多い。後輩にメッセージを。

 ◆大リーグなんて自分たちが高校生の頃には考えもしなかったが、目標を大きく持つことは悪いことではない。実際、大リーグでのプレーは刺激が大きい。送りバントをしないなど、米国のスタイルが合う選手もいるかもしれない。日本だけでなく米国の野球を見るのも面白い。高校時代から視野を広くもって多くのことを吸収してほしい。

毎回の16奪三振で完投したPL学園の前田=阪神甲子園球場で2006年3月27日、望月亮一写す
毎回の16奪三振で完投したPL学園の前田=阪神甲子園球場で2006年3月27日、望月亮一写す

 ■センバツヒストリー

 ◆1924年

1回大会 名古屋で8校

 春のセンバツは1924年に「過去1年間の試合で最強チームと認められた」8校が出場し、名古屋市郊外の山本球場で始まった。1回大会は高松商が制した。翌年の2回大会では選考委員会制度が確立され、舞台は前年の夏に完成した阪神甲子園球場に移った。

 ◆29年

プラカードが先導

 校名プラカードの先導、勝利校の校歌吹奏など今も続く趣向が始まったのは6回大会(29年)。10回大会(33年)は記念大会として過去最多の32校が参加した。この大会から、前年優勝校の無条件出場がなくなった。毎年開かれてきたセンバツだが太平洋戦争の影響で18回大会(41年)を最後に5年間中断。19回大会は47年に開催された。

 ◆53年

試験採用の背番号復活

 8回大会(31年)で試験的に採用された背番号制度が、25回大会(53年)に復活。翌年の26回大会からはNHKのテレビ放送が始まった。「まずチームプレー」との見地から、29回大会(57年)からは個人賞が廃止に。30回大会(58年)では、興国商-坂出商戦がもつれて初のナイター試合となった。

【那覇1-4北海】七回表那覇1死、スクイズで三塁走者の牧志清順が本塁を踏み、沖縄勢で甲子園初の得点を挙げる=阪神甲子園球場で1960年4月1日撮影 拡大
【那覇1-4北海】七回表那覇1死、スクイズで三塁走者の牧志清順が本塁を踏み、沖縄勢で甲子園初の得点を挙げる=阪神甲子園球場で1960年4月1日撮影

 ◆60年

那覇が沖縄勢で初出場

 32回大会(60年)には、那覇が沖縄勢として大会史上初めて出場=同。東京五輪開催年だった64年の36回大会は、開会式に五輪旗が登場し盛り上げた。44回大会(72年)からは、事故防止のため耳つきヘルメットの着用が義務づけられ、47回大会(75年)には金属バットも初登場と道具も現在の形に近づいていく。

29年

毎日新聞創刊146年

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