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第94回センバツ高校野球

2022年に開催される第94回選抜高校野球大会の特集サイトです。

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第90回選抜高校野球

センバツ・思い出 王貞治氏が語る 我が人生の原点 29回大会、早稲田実で4連続完投

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インタビューに答える福岡ソフトバンクホークスの王貞治球団会長=平川義之撮影 拡大
インタビューに答える福岡ソフトバンクホークスの王貞治球団会長=平川義之撮影
決勝後の王の左手。中指は1センチほど裂け、人さし指には血がにじんでいた=1957年4月8日朝刊の毎日新聞紙面(大阪本社版)から 拡大
決勝後の王の左手。中指は1センチほど裂け、人さし指には血がにじんでいた=1957年4月8日朝刊の毎日新聞紙面(大阪本社版)から
第29回選抜高校野球大会決勝で対決した早稲田実・王(右)と高知商・小松の両左腕=兵庫・甲子園球場で 拡大
第29回選抜高校野球大会決勝で対決した早稲田実・王(右)と高知商・小松の両左腕=兵庫・甲子園球場で
早稲田実の初優勝を伝える、1957年4月8日朝刊の毎日新聞紙面(東京本社版) 拡大
早稲田実の初優勝を伝える、1957年4月8日朝刊の毎日新聞紙面(東京本社版)

 不滅の大記録となるプロ野球通算868本を放った王貞治・現プロ野球ソフトバンク会長(77)は、1957年の第29回選抜高校野球大会で早稲田実の2年生エースとして4連続完投を果たし、優勝の原動力となった。「自分の人生のスタート」という61年前のセンバツ大会を中心に、高校野球の思い出を振り返ってもらった。【聞き手・安田光高】

痛み超越、血染めの熱投

 --4日連続の登板だった高知商との決勝は、人さし指と中指のマメがつぶれ「血染めの熱投」と言われた

 かえって余計な力が入らず、丁寧に投げたからコントロールが良かったのでは。試合中、痛みは感じなかった。火事場のばか力というけど、いざという時には超越した力が出る。そういう経験をしたのはあの時が初めてだった。

 --当時では珍しい、振りかぶらないノーワインドアップ投法で快投した

 1年夏に甲子園で投げたが、コントロールが悪かった。どう直していいか分からない時、よく練習に来ていたOBから教えてもらった。不思議だよね。ここ(頭の上)まで手を上げるのと、ここ(胸の位置)まで上げるのではそんなに変わらないが、ちょっとしたことでばらついていた球がまとまってくる。前年秋の東京大会で優勝して自信を持てたのも大きかった。プロに入ってからもいろいろと試し、いけそうだなと自信を深めると、積極的にプレーができるようになる。いい結果が生まれる。

 --決勝の最後は一塁へのけん制球でアウトにして優勝した

 珍しい終わり方。僕はどちらかと言うと変わっている。一本足打法で打ってみたり、けん制で試合を終わらせたりと、他人とは違うことをしてきている。中学は(東京の)下町の野球部がない学校だったので、高校生らの草野球チームに交じって野球をしていた。規則正しい野球をしたことがなく、練習スケジュールがきっちり決まったような環境でやったことが一切なかった。自由に好きなようにやらせてもらえたのが、結果的に良かったのだと思う。

 --紫紺の優勝旗が初めて箱根の関を越え、歴史を書き換えた

 当時は関西や九州、中国、四国に強いチームが多かった。ただ、早稲田実にできるなら自分たちもできると(関東などの)他地域の選手たちも思うようになったんじゃないか。大変なことを達成したのだろうが、当時は甲子園が終わったらすぐ夏に向けての練習だった。それが早稲田実の伝統。僕はプロの世界でも余韻に浸ることはなかった。打てば打つほど、次は相手の投手がどう攻めてくるのかをよく考えていた。余韻に浸ったり、天狗になっていたら、プロで15回本塁打王には絶対になれなかったと思う。そういう性格だったし、すぐに夏に向けて活動するような厳しい学校に入れたのは良かった。

 --春夏計4回甲子園に出場した

 甲子園に出ると、自分の野球にとても自信が出てくる。最初は甲子園に出られたら負けてもいいやという気持ちもあったが、それがもう一度出て勝とうという高い意識を持てるようになった。ましてや2回目の甲子園で優勝。無我夢中でそこまで登ってしまったから、今度は意識しながら登るようになって大変だった。高校生は1年ごとに体が大きくなり、成長を感じる。その時期に早稲田実で野球をして甲子園で優勝できたのは自分の人生のスタート。チームメートや学校に恵まれ、自分の選択は間違っていなかったと思う。

 --投打ともに評価され、巨人に入団した

 投手は2週間でクビになった。高校時代、打撃は年々良くなっていった。優勝した翌年のセンバツも(戦後初となる)2試合連続で本塁打を打った。一方で、2年の冬から投手としてはフォームが崩れ、投球が悪くなった。甲子園のマウンドで投げていたので、投手をやりたいという思いは断ち切りがたかった。ただ、ブルペンで一緒に投げた藤田元司さん、堀内庄さんらの球が自分よりも捕手に速く届き、これは厳しいなと思った。

 そういう意味では投手で優勝できたセンバツはいい思い出。プロ野球で22年間プレーしてきたが、高校時代の甲子園を一番よく覚えている。強烈な新鮮さがあった。あれよあれよと勝ち、自分が思いも寄らないうちにシンデレラボーイのようになったところがあったから。

タイブレーク、時代の流れ

 --今年の選抜から、投手の健康管理を目的に甲子園大会でもタイブレークが導入される

 米国でも今年から(マイナーリーグで)導入される。時代の流れだね。我々の時代は投手のけがは話題にならなかった。それも含めての野球だった。4連投だったあの決勝も使命感で投げていた。自分のためにはやっていなかった。チームメートや学校、応援してくれる同級生、家族のために一生懸命やっていた。僕にとってはいい経験だった。

 --理事長を務める世界少年野球推進財団で毎年、国際交流などの活動を行っている。子どもの野球離れをどう見ているのか

 少子化やスポーツの多様化が影響している。この冬の平昌五輪を見て、改めていろんな競技があるなと思った。ただ、野球は100年以上続き、日本人に合っているスポーツだ。僕は小学生の時は近所の工場のお兄さんたちに、中学では高校生たちに教わり、野球の技術を磨いてきた。我々はそういう機会を作ってもらったのだから、今度は子どもたちがやってよかったと思えるようにしないといけない。野球をするのは、プロ野球選手になるのが目的ではない。仲間と一緒にやって楽しかったという思い出をつくるためだ。そして、体も鍛えられ、友達もできて、ルールを守ることも自然に身につく。その点で団体スポーツの野球というのはいい。少子化の問題はあるが、野球ができる環境を作ってあげたい。

 --球児にメッセージを

 僕はいくつもの大きな球場でプレーしたことはあったが、やはり甲子園は特別。日ごろの練習で磨いた力を思い切って発揮してほしい。勝ち負けをあまり気にする必要はない。自分のやれることをやって、みんなと喜びを分かち合ってほしい。

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