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山は博物館

それは戦時下だった/1 陸軍、富士山で航空医学研究

富士山頂で航空医学を研究していた陸軍軍医学校の旧富士分業室(中央左)。手前の建物は気象庁富士山測候所=1968年12月撮影

 <くらしナビ・環境>

     富士山頂「剣ケ峰」(3776メートル)の北約200メートル。西安河原(にしやすのかわら)と呼ばれる平たん地に、登山者がほとんど目もくれない建物の土台らしいコンクリートが広がっている。太平洋戦争まであった陸軍軍医学校軍陣衛生学教室の富士分業室の名残だ。ひっそりと、軍用機のパイロットに与える高空の影響と対策に関する「航空医学」を研究していた。

     開所は1938年8月で、木造平屋建て2棟、床面積計約290平方メートル。夏なら15人の宿泊、越冬も数人可能だった。寒さに備えて壁は二重で、倉庫は燃料の木炭でいっぱい。1年分の米や漬物、缶詰を蓄え、1週間に1回、ふもとから届く新鮮な野菜や肉を所員が楽しみにした。水は、雨を地下水槽に蓄えたり、雪や氷を溶かしたりして確保した。

     気象庁発行の「富士山の気象観測90年」は、剣ケ峰にあった中央気象台富士山頂観測所の職員が見た様子を記している。「軍が羽振りをきかせていた時代。観測所員は徒歩で登山したのに軍は馬や雪上車を使い、絹の布団(観測所はもちろん湿った綿布団)に寝る」とうらやんだ。著書「日本百名山」で有名な登山家、深田久弥(ふかだきゅうや)(03~71年)は随筆「お鉢廻り」で「観測所と共に富士頂上の二大近代建築である。いかなる研究であるかは国防国家として厳秘に属する」と紹介した。

     戦争で飛行機が本格的に使われ始めたのは第一次世界大戦。戦闘機や爆撃機の飛行高度や速度、航続時間が向上していくと、低温や低圧、低酸素、強い加速度など、操縦者に与える影響への対応に迫られた。陸軍の航空医学研究拠点があった東京・立川では、低温低圧室や遠心力発生装置を使い、血液中の酸素や窒素の量、心拍数、血流の変化などを調べ、操縦者としての適性や栄養、訓練などを検討した。

     イタリアには高山にも研究所があり、森鴎外の後ろ盾もあって留学した寺師義信・軍医学校長は富士分業室の開所式で「我が国も持ちたいと思っていた」と話した。酸素マスクはあったが、操縦室の気圧を高める技術は研究途上で、防寒も十分ではなかった。寺師校長の孫で、埼玉県入間市の開業医、寺師良樹さん(67)は「どうパイロットを守り、操縦レベルを維持するかが大事だったのだろう」と話す。

     そして終戦。45年8月31日の山頂観測所の日誌は富士分業室について「軍医学校は解散で譲渡品を受け取りにゆく。一行20名は背負えるだけ背負って下山した」と描写した。かつて富士分業室を調査した山梨学院大の松本武彦教授(62)=法制史=は「霊峰とあがめていた割に、あらゆることに利用した。戦争のため総動員させた象徴が山頂の軍事施設」と指摘する。

     戦後、中央気象台の富士山頂観測所は気象庁の富士山測候所に変わり、2004年に無人化された。今はNPO法人「富士山測候所を活用する会」を中心に、高所医学や大気化学の研究者が利用している。ただ、間借りのうえ、建物の老朽化でいつまで使えるか心配だ。同NPO理事で、筑波大名誉教授の浅野勝己さん(82)=運動生理学=は「海外には恒久的な高所の研究拠点があり、日本にも欲しい。運営は国立極地研究所がふさわしい」と国に訴えている。【荒木涼子、去石信一】=次回は5月2日掲載

          ◇

     「レジャー白書」によると、16年の国内の「登山参加人口」は推定650万人で、1人平均4・8回登りました。このコーナーでは、まるで「博物館」のように山が持つ歴史や文化、科学に目を向けた“知的登山”を提案します。最初は「それは戦時下だった」と題したシリーズです。


    名古屋帝大は奥穂高岳で

     戦時下の大学で航空医学に熱心だったのは、航空機産業が盛んな地域の名古屋帝国大(現名古屋大)だった。夏は北アルプスにある国内3位の高峰・奧穂高岳(3190メートル)の山頂近くの「穂高小屋」(現穂高岳山荘)を拠点に、1939年から研究した。

     大阪毎日新聞によると、42年の「航空医学研究隊」は、教授と学生ら計19人が強力(ごうりき)5人、実験用のウサギ50匹を伴って到着。毎日20~30人訪れる登山者を健診し、高地では味覚や触覚が衰え、視野が狭くなることを報告した。国民学校で習う程度の算数もよく間違えたという。飛行士が克服するには猛訓練による慣れ以外にないと伝えている。

     43年には、勅令で東北帝国大(現東北大)と共に「航空医学研究所」を設置した。名古屋大学長を務めた勝沼精蔵氏(1886~1963年)は著書で「軍部は研究上の注文をつけると同時に、援助を惜しまなかった。民間側でも田辺製薬、三菱航空などが多大な資金援助をしてくれた」と振り返った。大阪帝国大(現大阪大)は38年に乗り出すなど、他の大学も研究し、43年には岡山医大(現岡山大)で「大日本航空医学会」の発会式が開かれた。【荒木涼子、去石信一】


    閉鎖後の富士分業室

     戦後、建物は逓信院と中央気象台が共同使用し、1948年から気象台のみが使ったが、工事作業員の宿泊施設にする程度で利用は少なかった。56年に、国立公園を管理していた厚生省に移管。夏期の無料休憩舎とし、東京医科大は応急的な無料診療も実施した。71年には国立公園業務を担う環境庁(当時)が発足し、管理が移った。「富士山頂地区管理休憩舎」としたが、2005年までに順次撤去した。

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