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文芸時評

5月 震災後の表現 小説の可能性示す=田中和生

北条裕子氏
平野啓一郎氏
多和田葉子さん

 マイッタ。

     第六十一回群像新人賞を受賞した、北条裕子の長篇(ちょうへん)「美しい顔」(『群像』)を読んだ感想だ。新人賞受賞作であることを忘れ、気がつくと作品に強く引き込まれて、激しく感情を揺さぶられた。ついに二〇一一年に起きた東日本大震災を「表現」する作品が登場したと言っていい。

     もちろん震災時の出来事を取り上げたり、震災後の現実を描いたりしている作品は、震災直後からいくつも書かれてきた。しかしそれらは震災が起きたという事実を「反映」しているだけで、本質的なところで表現しているとは言えなかった。そう感じさせる作品である。

     作者自身が「受賞のことば」で「被災者ではない私が震災を題材にし、それも一人称で書いた」と証言しているが、語り手の「私」は東日本大震災で被災した、十七歳の女子高校生である。七歳の弟「ヒロノリ」を連れて高台まで逃げた「私」は、津波に飲み込まれる故郷を目の当たりにし、被災者となって看護師だった母の行方を探す。

     いささか「私」に変わったところがあるとすれば、周囲の期待に応えるようにテレビの取材を受け、支援物資が届かない被災地で母親との再会を信じて待つ少女という役を演じるようになることだ。実際その役は避難所の状況を変える力をもち、だから「私」はマスコミを利用するつもりで役を演じつづける。同時にそれは、母の行方と直面しないことを意味する。

     十七歳の「私」なら、いかにもありそうなその自意識の劇の背後で、まだ自意識などなく母の行方を探す「ヒロノリ」、行方不明者の捜索を手伝う母の友人などがいて、ふとしたことでその劇は破壊される。そこからはじまるのは、震災後の被災地では幾万回とくり返されたであろう、被災者が肉親の死と直面するという過酷な劇である。

     被災者ではないわたしも、その劇が過酷だとりかいしていたつもりだが、しかしそれは実感ではなかったと思い知らされた。フィクションこそ現実にかぎりなく接近できる、という小説の起源以来の逆説を証明しているがゆえに、震災後における小説の可能性を示す作品になっている。マスコミがわかりやすく編集していく現実とその現実に生きる「私」の齟齬(そご)を可視化する、なにより文体が素晴らしい。

     ■   ■

     震災後の変化を「表現」するという意識は、当然新人以外にも及んでいる。平野啓一郎の長篇「ある男」(『文学界』)は、作者自身を思わせる語り手が知り合った弁護士「城戸さん」が経験した出来事を、客観的な三人称で語り直すようにして描いている。発端はその「城戸章良」が離婚調停を担当した、宮崎県に住む女性「里枝」の再婚した夫「谷口大祐」が事故死したあとに、名前を偽った別人だったと判明することである。

     その謎を解き明かす役となるのが「城戸」だが、鍵となるのは戸籍の交換を斡旋(あっせん)して捕まった「小見浦」という人物だ。そうして調査が進んでいく過程で浮かび上がるのは、戸籍を交換して生き直さなければならないほど過酷な出自をあたえられた「ある男」の肖像だが、それだけならよくできたサスペンス調の作品に過ぎなかっただろう。

     重要なのは、妻と幼い息子がいてなに不自由なさそうな「城戸」が調査にのめり込んでいく理由であり、それは震災後の日本で強まったナショナリズム的な雰囲気にある。なぜなら「城戸」は在日三世である。日本生まれの日本育ちで、文化的には日本人そのものだが、高校時代に帰化するという選択をしている。そのことを特に気にせず結婚もできたが、在日コリアンを罵倒するヘイトスピーチが行われる時代になり、出自から「城戸」は存在を脅かされている。その点で出自から逃れようとした「ある男」は、震災後の日本に生きる「城戸」に重なる。

     作者はこれまで、言葉を操る小説家や知識人の側から世界を見る姿勢が強かったが、この作品では言葉を操る弁護士(=作者)と沈黙の向こうにいる「ある男」の存在が拮抗(きっこう)している。しかも社会的な成功者「城戸」が自分の家庭を守るため「偽りの愛」を許容するのに対し、ほとんど満足な人生を送れなかった「ある男」は「里枝」とのあいだで「真実の愛」を手に入れていたと読める。作者の大きな転換点を示す、傑作長篇だ。

     ■   ■

     一方、佐川光晴の長篇『日の出』(集英社)もまた、ヘイトスピーチが行われる時代を強く意識している。戦前の日本で徴兵忌避者として生きた鍛冶職人「馬橋清作」と、現代日本で教師となるその曽孫「わたし」を交互に描いた作品だが、日本人の隣人である在日コリアンが置かれてきた立場に対する目配りが、戦前から現代まで連続しているのが秀逸である。

     多和田葉子の長篇『地球にちりばめられて』(講談社)は、近未来と思(おぼ)しき北欧を舞台に、言語や国境を自在に行き来する人物たちが登場する。そこでは日本語話者が貴重で、次第に日本が滅びているらしいとわかってくるが、だからこそ駄洒落(だじゃれ)のような日本語がかけがえのないものに感じられる。言語を越境する表現と現代日本に対する危機意識がうまく結びついた快作。(文芸評論家)

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