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新20世紀遺跡

/58 大阪府島本町 桜井駅跡

楠木正成伝説の地、国指定史跡桜井駅跡には「明治天皇御製碑」(左)などがたつ=大阪府島本町で

尊皇の象徴、楠木正成の「聖地」

 明治と改元されて150年の今年、近代の再検証が学会、メディアや出版界でも盛んだ。記者もゆかりの地を訪ねた。

     まずは阪急水無瀬駅(大阪府島本町)に降り立つ。駅前に掲げられた地図をみると、JR島本駅方面に延びる道路に「楠公(なんこう)道路」とある。歩いて5分ほどのところに「史跡桜井駅跡史跡公園」(同町)がある。

     楠公とは楠木正成(?~1336年)である。後醍醐天皇に味方した正成は同年、都に攻め寄せてきた敵の足利尊氏軍を湊川に迎え撃ち、戦死した。『太平記』によれば正成は尊氏軍との決戦に反対したが、公家らに押し切られた。死を覚悟した正成は同行していた11歳の嫡男・正行を本国河内に帰らせた。親子が別れたのが「桜井の宿」だ。

     駅は古代、中央と地方の情報伝達のため幹線道路に馬を配置した役所のこと。桜井駅は「実態についてはよく分かっていない」(島本町教育委員会)が、公園はその跡とされる。「中世じゃないか。『20世紀遺跡』じゃないぞ」と思う方もいるだろう。しかしここは、大日本帝国の遺跡である。

    今に残る「楠公道路」=大阪府島本町で

     歴史学者で東京帝国大教授を務めた久米邦武(1839~1931年)は「太平記は史学に益なし」と断じたが、正成が後醍醐天皇を助け大功があったことは、他の資料からも確実だ。桜井は江戸時代にも、尊皇思想の美談の地として紹介されていた。さらに大日本帝国にあっては、さまざまな神話や伝説が、天皇を頂点とする上で動員された。正成の忠臣ぶりを伝える史跡は、「聖地」ともいえる。明治初期以降、大小多数の顕彰碑が建てられた。1916(大正5)年、敷地およそ3972平方メートルが個人から島本村(当時)に寄付され整備が進んだ。21年には国指定史跡となった。

     園内の掲示板によると現在、碑は11基。乃木希典陸軍大将と、元帥海軍大将の東郷平八郎が筆を執った2基はそれぞれ高さ4・5メートル、5メートルと巨大だ。

     40(昭和15)年、阪急電鉄の「桜井之駅」駅が開設された。当時は日中戦争のさなかで、「ぜいたくは敵だ」が官製スローガンとなった時代。福島克彦・大山崎町歴史資料館(京都府)館長によれば、国内観光も自粛が求められていた。ただ、伊勢神宮や天皇陵など天皇ゆかりの地の参拝などは例外だったという。「桜井之駅」駅も同様だった。周辺に集落はなく、田畑が広がっていた。そこに駅から史跡まで参拝のための道路が造成された。これが「楠公道路」だ。伝説が町おこしの材料になった。

     45年の敗戦で、帝国は瓦解(がかい)した。そして48年1月、「桜井之駅」駅は現在の水無瀬駅と改名された。現在、史跡の面積は4400平方メートル余り。取材当日は平日の昼間で、春の陽光のもと、子どもたちが駆け回っていた。緑がゆたかで、散歩の休憩にもよさそうだ。敗戦後、正成の社会的評価は大きく変わった。しかし駅といい道路といい「忠臣」がいたからこその遺産であることは確かだ。やはりこの地は、日本の近現代を振り返るのにふさわしい場所である。【栗原俊雄】=毎月1回掲載します

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