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ストレスチェック義務化の課題と可能性 職場の信頼感を生む「共感」のコミュニケーション 文学部心理・社会学科 教授
浅井 千秋

2016年2月1日掲出

 過労死や自殺が社会問題になり、労働者のストレス改善が求められている。うつ病などの精神的疾患を未然に防ごうと、従業員50人以上の全事業所でストレスチェックを実施することを義務化する改正労働安全衛生法が2014年6月に成立し、15年12月に施行された。ただ、チェックはできてもその後の対応に不安の声は多い。ストレスチェックの活用について、職場や人間関係のストレス対処を研究し、管理職への研修も行っている東海大学文学部心理・社会学科の浅井千秋教授に聞いた。【毎日新聞社デジタルメディア局 中嶋真希】

 

  ――ストレスチェック義務化の背景は。

 働く人に、困難な課題が課せられる時代になってきました。長期的な不況の中で、少ない人数で多くの仕事をこなさなくてはならない。時代の変化が早く、消費者の要求は厳しくなり、どんどん新しいサービス、商品を考えなければならない。問題を起こせばすぐにネットで広まってしまう。こうしたことから、仕事が原因でうつ病などの精神的疾患が増えていますし、仕事の過労による自殺がマスコミで取り上げられるなど、社会問題化しています。

 ストレスチェックの実施には、仕事のストレスで苦しんでいる人を救うべきという福祉的な理由と、医療費の増大という財政的な問題もあり、病気になる前に防ぎたいという考えが背景にあります。企業の中だけでは解決が困難ですので、国が全体としてサポートしていく必要が生まれたと思います。

 

 ――根性論も根強く残っていますが、だいぶ理解が進んだということでしょうか。

 精神的な問題に対する関心が強くなってきたというのもあります。世論調査では、80年代から「物の豊かさ」より「心の豊かさ」を重視する人が多くなりました。人々が心の問題を理解するようになり、心の問題がある人を助けてあげようという意識になっていったのではないでしょうか。

 「ストレス」という言葉も良かったのでしょう。「精神的な病気」というと、周囲からは「あの人は病気だ」と思われ、当事者も悪いレッテルを貼られたような気持ちになってしまう。そうなると、医師に診断されても認められなかったり、周りに公表できなくなってしまいますが、「ストレス」なら誰にでもあるものという認識があります。

 管理職など指導する側にも「根性で乗り切れ」ではなく、コーチングのように科学的に有効な方法で人を指導するほうがいいという動きが生まれました。あまり厳しく指導するのは危険だと認められるようになったのです。

 

 ――ストレスチェックを実施する雇用側の課題は。

 従業員の精神的な問題をケアしやりがいを感じて働ける環境づくりをした方が生産性が上がると考える企業なら、ストレスチェックをしっかりと実施し、問題があっても支援的に対応することができるでしょう。

 問題は、そういう人たちを切り捨てて、別の人を雇えばいいと考える企業です。ストレスチェックの結果は雇用側に伝わらない仕組みですが、本人が医師の面談や仕事上の改善を求めれば、それを理由に、不当な待遇をする恐れがあります。職場ごとの統計結果から、「あいつじゃないか」と探り当てることも起こりうる。

 

 ――危険性は、十分議論されていますか。

 いいえ。最終的には、ストレスチェックから得られた情報をポジティブに使うか、それともネガティブに利用するかは企業の方針次第です。労働者の権利が侵害されないかどうかについては、安心できるとは言えません。

 企業の上層部には会社や仕事のために自己犠牲的に働くことがよいという価値観を持っている人が多く、「体をこわすほどの仕事をするのはおかしい」という感覚がない経営者もいます。働かせすぎる会社が多いし、それを取り締まる側の行政も「長時間労働をやめさせなくては」という意識が低いため、厳しい対応をしてこなかった。自殺、過労死など問題がどんどん深刻になってきて、やっと対処しようと動き始めたところです。

 

 ――労働者側にメリットはありますか。

 精神的疾患は、本人が自覚しないまま進行することが多いので、グレーゾーンの段階で自覚できれば役に立つはずです。ただ、本人が結果を見て「ストレスなんて、誰にだってある」と軽視することも考えられます。過労死する人の多くが、直前に周囲から「大丈夫か」と心配されても自覚できない。また、本人が何とかしたいと思っても、過労状態を放置しているような企業が対応してくれるかどうか。

 

 ――労働者自身が情報をどう使っていくかというところまで、議論が進んでいないのですね。

 そうです。ストレスを改善する対処法についても、情報を提示していくことが大事。ただ、ストレスの深刻さを伝えても、みんなが受け止めてくれるとは限りません。

 あまりにも怖い情報を打ち出されると、人は防衛反応が働いて「私には起こらない」と情報を打ち消してしまいます。解決の方法としては、より具体的な解決策を提示してあげること。病院やNPOなど、さまざまな窓口を提示して相談する垣根を低くしたり、日光浴やウォーキング、ヨガや座禅など、個人でできるストレス解消法の情報を得られるようにするといいでしょう。

 心理学的には、認知行動療法といって、否定的な見方を肯定的に変える方法が効果があると言われています。部下にイライラする人なら「仕事ができない、だめなやつだ」と思うのではなくて、「自分も若い時はうまくできなかった」「まだ学んでいる途中だから、失敗しても仕方ない」と思うようにする。自信が持てない人なら、「一歩一歩できるようになる」と思う。前向きといっても「きっとうまくいく」とばかり思っていると挫折してしまうので、「失敗は誰でもする」と思うようにすると、柔軟に対処できるようになります。

 

 ――ストレスを強く感じている社員がいるとわかったら、どう対応すればいいのでしょうか。

 管理職には、相手を尊重するコミュニケーションの知識と技能を身につけ、ストレスのない職場作りをしてほしいです。国が制度を作っても、実際に職場を変えられるのは現場の管理職。古いやり方で厳しく接するよりも、相手に質問し、理解し共感を示しながら仕事を進めるほうが、社員がストレスを感じないし、やる気も高まるので、実は効率がいい。

 ある自治体の管理職に、部下の相談を受けるコミュニケーション研修をしていたとき、管理職の方は、仕事では厳しく言わなければいけないと思っているので、相談の時だけ優しくするという正反対の態度が求められて戸惑うようでした。しかし、部下の能力を引き出すのは、相談時のコミュニケーションと同じ。「これお願いしたいんだけど、できる?」「わからないことは、ある?」と部下に質問しながら仕事をすれば、部下は尊重されていると思うし、何に困っているかもわかり、適切な指示が出せるので仕事の能率も良くなります。

 さらには、健康な人と、精神的に問題がある人を区別するのではなく、全員にこの方法で接してください。「健康な人に厳しく」「うつ病の人に優しく」という態度だと、「じゃあ、あの人はどっちだろう」ということになってくるし、部下から「どうしてあの人にだけ甘いんだ」という不満も出てくる。全員に対して同じように、相手のことを尊重する接し方をすれば、ストレスがたまらない職場になっていきます。

 

 ――ストレスチェック以前に、部下との接し方から変えていかないといけない。

 そうですね。ストレスチェックを実施しなくても、部下の状態がわかるのが理想です。

 良い上司になるには、大変な努力がいるわけではありません。「相談にのる時間なんてない」という人もいますが、相談にのって助けるのも、相手のことを理解せずに怒るのも、どちらもかかる手間は一緒。同じ短い時間なら、相手に質問して、理解しようとするほうがいい。ちょっとした改善で、相手の反応がポジティブになります。

 

 ――ほめることが苦手な管理職が多いようですが。

 ほめるか、しかるか。どちらかしか知らないと、失敗が多い人はしかられるばかりになって、うまくいきません。失敗したら、なぜできなかったかを理解して共感を示してあげる。そうすると部下は、「失敗したのにわかってくれた」と上司を信頼する。仕事の成果のためにも、失敗を報告できる環境作りが大事です。上司が怖くて言えずにいると、後になってわかった時には、もう手遅れ。だけど、小さな失敗を報告できれば、すぐに対応できて成果も生まれやすい。しかるのでもほめるのでもない、共感するというコミュニケーションを身につけてください。

 

 ――ある程度ストレスがあるほうが、意欲につながることもあるのでは。

 大ざっぱに言うと、「中くらい」つまり適度なストレスがいいと言われています。「手抜きしても怒られないから満足」という環境では、能力を発揮できず、成長もない。プレッシャーもありますが、「高い目標を達成して得られる満足」のために努力することで成長もできる。ただ、その目標や努力のレベルが高すぎると、人間の体は対応できなくなり燃え尽きてしまいます。

 でも、「中くらい」って、すごく難しい。本人が自分の状態を理解し、上司も部下のことをよくわかっているという状況が必要で、そのためには、相手を理解する関わり方の訓練が必要です。

 

 ――先生が行っているコミュニケーションの実践活動ですね。

 職場での部下や同僚とのコミュニケーションに関する研修の依頼をよく受けます。授業でも、学生同士のグループワークで、こうしたコミュニケーションの実習を行っています。

「悩んでいる部下がいたら、『どうしたの?』と聞きましょう」というやり方の知識だけ身につけても、気持ちが伴わないし、例外的なことがあると対応できない。大事なのは、お互いがありのままを話して、理解し合うことで生まれる信頼感の経験です。他者への信頼感があれば、その人は状況や相手に応じた適切な行動が取れるようになります。優秀な営業マンは、相手の話を聞くのが上手で、信頼関係を作れる人が多いんですよ。

 

 ――今後、この分野を研究したいという若い世代に期待することは。

 心理学は、簡単な質問でアンケートをとり、より多くのデータを集めて分析する研究が多いです。全体の傾向がわかるというメリットはありますが、抽象的すぎて、日常の人間関係で具体的にどう対処すればいいかわからない。もっと具体的なコミュニケーションのやり方が見えてくる研究のほうが、成果を実践に生かしやすい。「失敗した人をしかるより、共感すればいい」といった具体例が出てくるような研究を学生のうちからやってみると、学生にとっても社会にとっても役に立つと思います。ポジティブな人間関係の作り方は、今後さらに必要な研究テーマになってくると思います。

 

 ――これから大学に進学する若者にメッセージを。

 心理学では「内発的動機付け」と呼ばれますが、「自分がやりたいと思う」ものを見つけるのが一番です。反対に、「外発的動機付け」といって、「就職に有利だから」「やりたいわけではないけど」という気持ちで大学に入っても、内容に関心がないのに卒業のために単位を取れればいいとなってしまうと、学びの質が低くなってしまいます。内発的動機付けがあれば、積極的に興味のある授業に参加して、学びの質も高まります。

 ただ、ストレスと一緒で、何をやりたいかは、自分でもわからないものです。それを知るためには、自分についてふりかえり、話すこと。私の授業で実践している自己開示のグループワークでは、例えばうれしかったことや嫌だったことをテーマに話してもらいます。すると、「ああ、自分はこういうことが好きなんだ」とわかってくる。友達同士で「こういうことをやってみたい」と話し合ってみてください。そこから、やりたいことが見つかるかもしれません。

 

文学部心理・社会学科 教授 浅井 千秋 (あさい ちあき)

1962年生まれ。早稲田大学商学部卒、同大学文学研究科博士課程心理学専攻修了。日本労働研究機構臨時研究助手を経て、現在、東海大学文学部心理・社会学科教授。社会心理学、産業・組織心理学が専門で、組織で働く人の職務への動機づけや社会的適応などについて調査研究を行うと共に、管理職、専門職、カウンセラーなどに対して心理教育の実習法を用いた職場のコミュニケーション能力開発の教育研修を行っている。著書に「心理学を学ぶ」編著(東海大学出版会)、論文に「組織特性、リーダーシップ行動および就業態度が自発的職務改善に与える影響」(実験社会心理学研究)などがある。