オピニオン

陸上に明け暮れた大学時代 ファイナリストになれたマネジメント力 体育学部競技スポーツ学科 教授
髙野 進

2012年7月2日掲出

 400メートルの選手として、五輪3回、世界選手権に3回出場した東海大学体育学部の高野進教授。1991年の世界陸上東京大会では初の決勝進出で7位、92年のバルセロナ五輪では60年ぶりに短距離で決勝進出という偉業を成し遂げた。91年の日本選手権で出した44秒78は今も日本記録だ。大学で教壇に立ちながら、指導者としても世界陸上銅メダリストの末續慎吾選手や、塚原直貴選手らを育成。日本陸連強化委員長として7月27日から始まるロンドン五輪に向けて準備に余念がない。【聞き手・毎日jp編集部、小座野容斉】

 

 ――大学時代の高野先生はどのような選手でしたか。

 東海大学には、体育学部ではなく、文学部の文明学科に入りました。私は走ること以外のスポーツが得意ではなかったので、高校の恩師が「体育学部は(いろいろなスポーツの)実技があるし、君は不器用だから。本を読むのが好きなようだし文学部へ行ったらどうだ」と勧められたのです。

 それで陸上競技部に在籍しながら、大学3年までは文学部の学生として頑張っていました。3年生、21歳の時に(1982年ニューデリーで開催の)アジア大会で、初めて日本代表に選ばれ、400メートルで金メダルを獲得しました。そこで将来どうしようかなと考えた時に、スポーツ系の仕事に就きたいと考えるようになりました。それで体育学部に編入しました。

 ですから、大学入学後の3年間はスポーツ科学的な知識や情報がほとんど無い中で陸上をやっていました。私の恩師、宮川千秋先生(体育学部教授)も若く、試行錯誤をしながらむちゃくちゃに練習をやらせた時代でした。私はわけもわからず3年間、とにかくボリュームのある練習をしていました。結果、記録は伸びて日本記録も出して。

 宮川先生は、私の強さについて、他の人に「文学部なので、余計な知識がないから、やれと言ったことをへりくつも言わずに100%素直にやる」と語っているのを、聞いたことがあります。ですが、そこで自分には知識がないということにも当然気がつくわけです。これまでは良かったけれど、今後もそういうわけにはいかないと思って、体育学部に編入してみようと考えたのです。

 体育学部に来てから、スポーツ科学の知識が入ってくる。積み上げた土台に磨きを掛けるというタイミングがちょうどぴったり合ったということです。「心、技、体」ということで言えば、「体」の部分を、余計な知識無しに、きっちりとかなりの練習量で追い込んで、そこに体育学部で得た「技能」が混ざり始め、必然的に練習の量は減るけれど密度が濃くなってくる。

 自分自身は400メートルという競技をやっていて、なぜ400メートルは苦しいのか、わかりませんでした。それがスポーツ生理学の授業を受けると、エネルギー代謝系の話の中で、疲労物質が出るのだと。時間的には40秒で最大になるのだと。それで「なるほど」と思うわけです。そういう例が増えていって、自分がこれまでやってきたことに対して「合点だ」となった。それで自分で考えてやるようになって、壁を破って記録がまた伸びていく。体育学部の授業を受けることによって「なぜ坂道を走るのか」「200メートル走と、400メートル走と、600メートル走の違いは何か」ということを考えて取り組むようになりました。

 

 ――学生生活の思い出を教えてください。

 毎日が楽しくてしょうがなかった。最も練習をしている時は、近隣のゴルフ場で早朝5時過ぎから1時間半ほど走って、授業中はノートに400メートルトラックを書いてその上を鉛筆でなぞりながら午後の練習のシミュレーション、頭の中では走っています。その後は陸上競技部の練習で走って。家に帰ってから補強三昧。補強というのは器具を使わず自分の体重を使った腕立て伏せ、腹筋などのトレーニングです。単純でしたから、「400メートルだから、腹筋は400回やろう」とか。覚醒中は常に走ることを考え、できることを実践していた時代でした。それが楽しかったのです。

 でも本当に楽しかったのは、体育学部に編入してからです。編入してみたら「仲間」がうじゃうじゃいるという感じで。多くの先輩・仲間と意気投合しました。大学生活はこんなに楽しいのかと思っていました。24時間フルに燃焼していました。理想を他に求めてしまったら駄目だと思っているので、今自分がいるところが一番理想に近いところであり、そうなるように自分が努力していかなければならない、と思っていました。陸上競技を中心とした、仲間や先輩や、大学の授業やその他の生活も含めて、夢のような出来事でしたね。今思うと。

 

 ――一番思い出に残る大会・レースは。

 結果だけ見れば、92年のバルセロナ五輪が8位入賞ということでもあるのですが。ただ、やはり(前年の)東京の世界陸上が大きかったと思います。ファイナル(決勝)という場所が「夢の舞台」から、だんだん自分の目標に変わっていってそれを達成した。それも、かなり戦略的に取り組んでいって達成できた。

 東海大学の教員として採用になり、88年4月の教員懇親会の席上で、現副学長の山下(泰裕)先生と話をしました。大学で教べんをとるということへのプレッシャーがありましたから、現役の選手でいるということは早々に終わりにしなければならないというようなことを話しました。すると、山下先生から「まあ、そういう考え方もあるけれど、今しかできないことがあるから。よく考えた方がいいですよ。挑戦することをやめたら、次にもう一回五輪へ行くというチャンスは二度と回ってこない」とアドバイスをいただきました。

 その年、27歳でソウル五輪に出場して、8位までが決勝に残れるところで9位。ソウルでは大きな目標だった45秒台の壁を破って44秒90を出しました。100メートル走者で言えば9秒台に相当します。どこの国へ行っても「400メートルで44秒台」というと「おおっ」という反応が帰返ってくるタイムです。その記録を達成できたという充実感と、決勝を逃したという悔しさ。次の五輪では31歳になる。社会人としても教員としても、この4年間仕事を身につけて、意識をもっと高めていかなければいけない時にいいのかなと。そんな時に山下先生の話を思い出して、挑戦を決意しました。

 そこで初めて自分の中で戦略的に物事を考えて運んでいったのです。最初から4年後の自分はこうなるということを宣言しました。つまり、3年後の世界陸上で決勝に進出し、4年後の五輪で集大成、もう一回決勝に出るという目標を、マスメディアで明言しました。そのために長年やってきた400メートルを89年は1年間封印して休むことにしました。記録にこだわってきて44秒台という結果は出たのですが、決勝に残るためにはスピードが無かった。スピードを付けるために1年は100メートルなどに出場。2年目の90年は200メートル。ここではアジア大会の金メダルを目標にしました。それまでアジア大会では男子200メートルだけ金がなかったので、スピード練習の成果の一つとしてです。それを達成し、30歳の91年に400メートルに復帰。日本で世界陸上東京大会がありました。スピード型ランナーとして決勝に残ることを目標として達成でき、7位に入賞した。その前の日本選手権では日本記録も出すことができた。その勢いで、バルセロナ五輪でも決勝に残ることができたのです。

 自分で宣言したとおりになって、我ながらびっくりしました。30歳というのは現役の陸上選手にとっては大台です。本当に30歳で400メートルに戻れるのだろうかという不安があったのですが、それが本当にできたという気持ちは大きかった。ビジョンを持ってプランを立ててその通りに実行できたということが、今でも自分の核になっています。だから思い出に残るのはやはり東京の世界陸上ですね。

 バルセロナ五輪は、運が良かったなと思います。世界陸上の後、負傷などもあって満足な練習はできませんでした。それとは裏腹に取材陣が多数来るのです。取材のプレッシャーを追い風にしなければいけないと思いました。メディア戦略というのか、取材陣を味方にする、追い風にするという試みも自分の中ではしていました。「メダル取れそうですか」という質問もありました。そこで「メダルは苦しい」と正直にいうとメディア的には盛り下がってしまう。盛り下げないために「ファイナリスト」と言いました。それまでは国内のメディアはファイナリストという言葉は使っていなかった。たぶん私が初めて使ったと思います。決勝進出ではパッとしない。メダリストという言葉があるのだから、ファイナリストだと言い続けました。バルセロナの決勝では、8位だったのですがNHKは「世界のファイナリスト」と実況してくれました。

 

 ――世界のトップクラスの選手と戦う上で、工夫は。

 東京の世界陸上、バルセロナ五輪で得たもう一つの成果とは、「走る技能」です。世界の舞台で互角に戦っていくためには、走る技能をもっともっと高めなければいけないと。技能的な部分でも新しい自分を作っていきました。うれしかったのは、決勝に残ることでそれを証明できたということです。私のような普通の日本人が、運動能力の高いアフリカ系の選手と肩を並べかけるところまでいった。そこにいけたのは技能によって動きを変えたからです。それが自分にとっては大収穫で、次の選手に伝えることができるかもしれないと思ったからです。行き方がわかったというか、地図が見えた、それが、末續とか他の選手にも伝承していったのだと思います。

 

 ――日本記録の400メートル44秒78は、陸上五輪種目短距離競技の中で、最も古い記録ですが。

 400メートルはきつい種目ですし、タレント(才能のある選手)は100や200に流れていっているからだと思います。例えば末續が専門的に400をやっていればたぶん私の記録を破っていたと思いますよ。今は100、200が活発なので若い選手はそちらで世界を見ているのでしょう。それに私はなによりも100では物足りないというか、400を走った時は「命全部ささげます」というか完全燃焼してしまって。「あしたのジョー」ではないですが「真っ白な灰」になるというのがありましたからね。

 

 ――陸連の強化委員長として、メダルとか入賞以外に目標として選手に求めるものは。

 順位が何番であろうと、日本で見ている人たち、とりわけ東北の被災地などでつらい思いをされている人々に対して、五輪ですごいパフォーマンスをしている、持っているものを全部出し切って日本人として誇れる、そういう競技を見せてほしい。私が8番や7番で感動してもらったことを考えれば、誰だってそういうことができると思います。最後は流すとか、あきらめるとか、そういうことでは代表として失格。自分であって自分だけではない世界に入っているのが五輪の代表です。重いかもしれないけれど、自分の家族や地域や、日本を背負ってパフォーマンスを見せるのが五輪ですから。

 

 ――学生、若者にメッセージがあれば。

 「動いて、考えて、また動く」。よく「考えてばかりでは頭でっかちになる」と言いますが、考えているばかりでは脳が育ちません。私の経験でも、動くこと、運動することで、ものをよく考えられるようになって頭脳に良い影響があったと思います。まずは「動いてみること」ということを私からのメッセージとして若い皆さんに送りたいと思います。

 

体育学部競技スポーツ学科 教授 髙野 進 (たかの すすむ)

1961年5月21日生まれ。静岡県富士宮市出身。東海大学体育学部競技スポーツ学科教授。東海大学陸上競技部短距離コーチ。公益財団法人 日本陸上競技連盟 理事・強化委員長。特定非営利活動法人日本ランニング振興機構理事長。 日本スプリント学会会長。400m日本記録保持者44秒78。陸上400m走にてロサンゼルス・ソウル・バルセロナと三回のオリンピックに出場。'92バルセロナオリンピックでは60年ぶりに陸上短距離で決勝進出という偉業を成し遂げた。現在は大学教員と日本陸連強化委員長として活躍中。大学では基礎身体運動演習・スポーツ科学論等の授業を通じて、学生に走ることの奥深さ・素晴らしさを教えている。もう一方では、今までの経験と研究を生かし、独自の走理論とトレーニング方法を確立、愛弟子塚原 直貴らと世界最速を追求するとともに、日本陸上界全般の競技力向上を目指し、日本陸連強化委員長という立場から国際競技会で活躍する選手の育成に努めている。主な著書には、2008年「陸上 短距離パーフェクトマスター」新星出版、2010年「かけっこの科学」学研、他多数。