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麗しの島から

日本人よ、私たちを忘れないで

日本軍の軍属として従軍した頃を回想する趙中秋さん。「僕の話を聞いてください」と何度も繰り返した=台湾南部・高雄市で2018年7月8日午前9時55分、福岡静哉撮影

 終戦からまもなく73年。軍人や軍属として戦争に参加した台湾人の大多数が90代となり、生存者はわずかとなっている。台湾籍元日本兵・軍属は、戦争中は「日本人」として約20万人以上が従軍し、3万人以上が戦死した。だが戦後、台湾が日本領でなくなったため、十分な補償を今も受けられないままだ。軍属としてミャンマーなどで従軍した趙中秋(ちょう・ちゅうしゅう)さん(90)=南部・高雄市=と、上海の陸軍病院で従軍看護婦だった廖淑霞(りょう・しゅくか)さん(90)=台北市=に今の思いを聞いた。

「お国のため、天皇陛下のため」と軍属に志願 

 「僕の話を聞いてください」。趙さんは取材中、私の目をじっと見て、何度も何度も繰り返した。すべて流ちょうな日本語だ。

 1928年3月生まれ。日本による台湾統治が始まって30年以上がたっており、すでに日本語教育が行き渡っていた。「日本人として、お国のため、天皇陛下のため」と志願し、軍属として従軍した。43年3月、高雄港を出発し、ビルマのラングーン(現在のミャンマー最大都市ヤンゴン)に着いたのは同年5月末。ビルマやタイで主に建設工事を担った。ジャングルでの行軍も経験した。「食べ物が本当になくて、栄養失調やマラリア、かっけで同じ部隊の者がバタバタと死んでいった」

 しかし、それ以上に過酷だったのは戦後だった。敗戦後も混乱の中ですぐに帰国することはできなかった。結局、食料がほぼ尽きた状態でタイとミャンマーの国境付近で3年近く、同じ部隊の数人と共にサバイバル生活を続けた。

 食料調達は主に趙さんが担ったという。「姿勢をこうして、魚をこう、投げるわけですよ」。趙さんは、川で大型の魚を見つけた時の奮闘ぶりを、身ぶり手ぶりを交えて語ってくれた。「今、ちょっと年いってるから無理かもしれんが、こうして、サッと! これくらいの早さで」。90歳とは思えない素早い身のこなしで、魚をつかみ、抱えて放り投げる様子を再現した。山中では動物を探した。「9メートルはある大蛇を穴から引っ張り出して、銃剣で殺して、腹を割いたら中からアヒルが5羽も出てきた。アヒルも蛇も焼いて食べた。蛇でもトカゲでも口に入るものは何でも食べました」と振り返る。

「僕は日本人としての責任を果たした。不満だ」

 48年、帰国を果たした。だが台湾は既に「日本」ではなくなり、蒋介石率いる国民党による独裁統治が始まっていた。台湾籍の元軍人・軍属はもはや日本人ではなくなったため、日本人の元軍人・軍属が戦後に受給した軍人恩給や補償は受けられなかった。元軍属の補償は死亡や傷病などが条件だが、趙さんは「兵隊以上に兵隊の仕事をした。僕は不満だ」と憤る。建設会社などで働き、妻と力を合わせて娘6人を育て上げた。

※軍人と軍属で異なる補償制度だったことを踏まえて、記述を一部修正しました。

 台湾籍元日本兵らの要望を受け、日本政府は88年度以降、戦病死者らを対象に1人200万円の弔慰金を支払った。だが、日本人戦死者遺族の受給額とは大きな開きがあった。台湾籍元日本兵らは1人あたり500万円の補償を求めて日本で裁判も起こしたが、92年に最高裁で敗訴が確定した。

 趙さんは語気を強めて言った。

 「僕は日本人として命がけで働き、日本人としての責任を果たした。軍属として最前線まで行った。兵隊以上の仕事をしてきた。(日本政府は)日本人には補償をする。台湾人は(日本国のために)尽くさなかったというのですか? 不公平だ。日本として無責任です。僕は何回も何回も日本に行ってお願いした。外務省も行った。厚生省(現厚生労働省)にも行った。政治家のところにも行った。『政治問題』と言われた。政治と私たち、何の関係がありますか! 憤慨します! なにゆえ、その資格がないのですか。僕はあと何年生きられるか分からないけど、こういう人がいるということを、日本の皆さんに話したい。私たちを忘れないでほしい」 

陸軍病院で従軍看護婦として勤務した頃を振り返る廖淑霞さん=2018年7月2日午後2時27分、福岡静哉撮影

「私の夫も日本のために志願した。日本は皇民化に成功したよ」

 従軍看護婦として日本陸軍が上海に開設した病院で働いた廖さんも、趙さんと同じ思いだ。台北市の自宅で話を聞いた際、「台湾人に生まれて悲しいよ」と漏らした。

 27年11月生まれ。父の仕事の関係で39年、上海に渡って日本人居留地に住んだ。日本人向け小学校と女子商業学校で学んだ。卒業後は海運会社で働いていたが、日本軍の要求で44年6月から十分な訓練もないまま従軍看護婦として働かされた。重傷や重病の兵士の手当てに追われる日々を過ごした。戦況は日に日に悪化した。廖さんも決戦に備え、三八式歩兵銃やなぎなたの扱い方を教えられた。B29の爆撃が相次ぎ、歩けない患者を防空壕(ごう)へ運ぶ日々だった。同僚の朝鮮半島出身の少女は爆撃で死んだ。

1944年、上海の陸軍病院で働いていた頃の廖淑霞さん(右)=廖淑霞さん提供

 給与は強制的に貯金させられ、事実上の無給だったという。終戦時、当時の日本円で1566円の残高があったが、敗戦で引き出せなくなった。「当時なら家が1軒建つくらいの金額だった」と廖さん。47年、台湾に引き揚げた。敗戦によって未払いとなった戦時郵便貯金の支払いを求める元日本兵らの要求が実り、廖さんも2000年、半世紀ぶりに貯金を受け取ることができた。だが物価変動を踏まえた換算率はたったの120倍。手元に残ったのはわずか19万2340円だった。廖さんは「日本が貧乏なら、もらわなくてもいい。でも日本は経済大国なのに。バカにしている」と憤る。

廖淑霞さんの郵便貯金の証明書。昭和21(1946)年2月22日付で、1566円の残高が証明されている。氏名は日本名の「廖淑子」となっている=2018年7月2日午後2時12分、福岡静哉撮影

 廖さんは小学校の卒業アルバムを取り出し「ここを見てください」と指で示した。そこにはこう記してある。「皇民訓 君ノ為ニハ血ヲ流セ」。「天皇のためには血を流せと書いてある。私たち、学校で尽忠報国(忠節を尽くし、国から受けた恩に報いること)と教えられた。私の夫も日本のために志願した。日本は皇民化に成功したよ。戦争は間違ってるね。戦争がなかったらたくさんの人は亡くならなかった」

 趙さんと廖さんの一言一言が、胸に突き刺さった。2人にとってあの戦争は今もまだ、終わっていない。【福岡静哉】 

福岡静哉

台北特派員。1978年和歌山県生まれ。2001年入社。久留米支局、鹿児島支局、政治部などを経て2017年4月、台北に赴任した。

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