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炎のなかへ

/241 アンディ・タケシの東京大空襲 石田衣良 望月ミネタロウ・画

その夜(76)

 よっさんが温泉でも浸(つ)かるように、頭のうえに絞った手拭いを載せていった。

    「なんにしても、こうしてみんな助かった。タケシ坊ちゃんのお陰です。さっきの話覚えてやすでしょうね」

     なんの話だろうか。タケシは首をひねった。

    「この戦争が終わったら、中古の編み機でも手に入れて、時田メリヤスを再興しやしょうって話でさ。社長も帰ってきなさるし、タケシ坊ちゃんもいる。うちの会社は当分安泰だ」

     千寿子もまんざらではない顔でうなずいた。建築家はあきらめて、町工場でもやるのもいいかもしれない。君代が口をはさんだ。

    「よっさん、いいお話ありがとう。でも、タケシ、今すぐに決めなくてもいいのですよ。戦争が終わったら、お父さんがいるアメリカにいけるかもしれない。大学で建築の勉強を続けられるかもしれない。生きてさえいれば、未来は必ずあるのです」

     登美子がタケシから視線をはずし、濁った水面を見おろしていった。

    「君代さんのいうとおりだと思う。タケシくんもわたしも若いし、この大空襲を生き残れたんだから、つぎになにが起きても絶対だいじょぶだよ。だって、これ以上ひどいことなんて、生きてる間に起きるはずないものね」

     とよちゃんが手を打つと、ぱちんと小気味よく濡(ぬ)れた音が鳴った。

    「そのとおりですよ。こんなにひどい目に二回もあうはずないんです。わたしは焼夷(しょうい)弾も火事ももうこりごり。ひと晩でどれだけやせたか」

     ふくよかなとよちゃんのいつもの冗談だった。なにがおかしいのかわからないが、千寿子も登美子も君代も涙ぐむほど笑っている。登美子が笑顔を収めてぽつりといった。

    「将来はタケシくんの自由だよ。わたしはずっと日本に、この街にいて欲しいけどね」

     それだけで十分同じ年の少女の思いは伝わった。人に好きだなどと軽々しくいうことのない時代である。自分の未来か。タケシはぬるい水のなかで手足を伸ばし、ゆったりとくつろいだ。ひどく眠くて息も苦しいけれど、炎に追われ今を生きるのが精一杯だったさっきまでと違い、遠い将来を考えられるのはたいへんな贅沢(ぜいたく)だった。テツもミヤも少年兵どころか、大人になるまで生きられなかった。自分はなんとか大人になれそうだ。どんな大人になるにせよ、大空襲のような悲惨な出来事は二度と繰り返したくはない。

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