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音楽の窓から世の中を眺めて

12の哀れな魂と「さまよえるオランダ人」

マリインスキー劇場のオペラ「さまよえるオランダ人」のリハーサル=東京都内で2000年1月、米田堅持撮影

江川紹子

 暑い夏だった。

     そのうえ、7月にオウム真理教事件の死刑執行が相次ぎ、しなければならないこと、考えることに追われ、身も心も安まらない夏になってしまった。

     このところ、ようやく落ち着いて、ゆっくり死を悼む状況になってきた。

     死刑に処せられた者の死を悼むとはどういうことか、と奇異に思い、中には不快に感じる方もおられるかもしれない。

     私も、教祖については全くそういう気持ちにはなれない。彼は一連の事件の首謀者であるばかりでなく、自身の野望のために自分を信じてついてきた信者たちを犯罪者にしてしまった。しかも、自らを省みることがまったくない。その罪は、命をもってしても、あがないきれないのではないか。来世というのがあるなら、そこでも彼には罰と償いの日々が待っていると思う。

     それでも、この教祖に心を縛られ、その手足となって罪を犯してしまった12人の元弟子たちについては、私はその死を悼みたいと思う。

     彼らが、オウムに入信したのは1986年から89年にかけて。その多くは、世の中がバブルの狂騒に浮かれている最中に、自分が生きる目的を模索するような、まじめな若者たちだった。

     地下鉄サリン事件の実行犯、広瀬健一もその一人だ。信者とはなったが、親思いの彼は、教団に“出家”をする気はなく、後々は自分が老いた親の面倒を見るつもりでいた。極めて優秀な成績で大学院を卒業、大手電機メーカーの研究所に就職も決まっていた。

     ところが、そんな彼を、教祖が自ら口説いた。

     「このままでは救済が間に合わない。君たち若い者がやらずに誰がやる。もう自分の都合を言っている場合ではない」

     世紀末に、ハルマゲドンなる災いが起きる。その災いから多くの人の命と魂を救う活動に加わることにこそ、君にとっての「生きる意味」はある――そう言って、あの教祖は若者の使命感をかき立てた。さらに、親のことを心配する者には、「子が出家する功徳は親に及ぶのだから」と言って、親との縁切りをそそのかす。

     広瀬も、そうした説得を受け、教団に飛び込んだ。

     やはり地下鉄サリン事件の実行犯で、彼が担当した路線が最も多くの死者を出したことなどから、マスコミで「殺人マシン」とさえ呼ばれた林泰男も、「生きる意味」を求めてさまよった揚げ句に、オウムに迷い込んだ一人だ。彼に死刑を言い渡した東京地裁の判決は、入信の経緯について、こう書いている。

    <被告人は、中学3年のころから自己の心の中の差別心に思い悩み、20歳のとき父親の死に遭遇したことを機に、「人間の生と死」の問題を探求しつつ、海外へも赴くなどし、真面目に宗教への関心を深めていたものであって、教団への入信もこのような精神遍歴の結果生じた被告人なりの求道心に裏付けられたものと認められるのであって、教団入信の動機自体を否定することは出来ない>

     そして、犯罪行為については厳しく指弾しつつも、純粋な思いでオウムに加わり、罪人となった者たちに対する一片の同情を寄せている。

    <およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまた、不幸かつ不運であったと言える>

     この言葉は、それは死刑を執行された12人全員に当てはまる。誰もが、出会った師が異なれば、他人の人生をぶち壊し、自分の命まで失う事態にまではならなかったはずだ。

     それでも、教団は犯罪を重ねてきたのだから、途中でおかしいと気づいて脱会するのが普通ではないか、と多くの人は考えるだろう。

     その通りだ。しかし、それが難しい。オウムという迷宮は、1回入り込んでしまうと、教祖にがっちり心を支配され、そこから逃れるのは、はたで思うほど容易ではないようなのだ。

     過去・現在・未来をすべて見通した教祖の言うことには、自分には理解できない深遠な意味があるのだろうと、疑問にもふたをし、ずるずると教団での生活を続けた揚げ句、新たな罪を重ねてしまった者は林だけではない。地獄の恐怖や教祖への畏敬(いけい)の念、ヨガによる心身の体験、人類救済という一見崇高な活動目標が、一人ひとりの思考を縛った。

     裁判の過程で事実に向き合い、教祖と決別した者もいるが、教団にいる時に心の中に構築された世界観や思考方法から、死の間際まで抜け出せなかった人もいたようだ。教祖や教団と関係を絶った人でも、心を整理するのは、それほど簡単ではない。

     地下鉄サリン事件の運転役となり、無期長期刑が確定した杉本繁郎が、先日東京新聞に寄せた手記からも、オウムの呪縛の強烈さを改めて感じた。彼は、親しかった者や同じ法廷で裁判を受けた者たちが死刑執行されたことについて「胸が苦しくなる」と心情を吐露しつつ、教祖についてはこう述べている。

    <執行により1つの大きな区切りを迎えました。私自身、やっと教祖の呪縛から解放されたような思いが心に生じたことも確かです>

     杉本は、逮捕された後、自らの責任を率直に認め、警察がいまだ把握していなかった事件についても、自ら明かした。法廷では、事実を淡々と語り、事実と向き合おうとしない教祖に対して、厳しく対峙(たいじ)した。

     服役を始めてからも、内省を深めているのは、彼が時々くれる手紙からも感じていた。教祖とは完全に決別しており、その影響下に戻ることはありえない。

     その彼にしても、「呪縛」の片鱗(へんりん)が心の隅にへばりついているのを感じて、悩むこともあったのだろう。私は、自分がいかにカルト経験者の苦しみを理解していないかを、改めて思い知らされた気がした。

     こうした強烈な心の支配は、オウムに限らず、カルト性の高い集団ではしばしば見られる。というより、さまざまな手法でメンバーの心を特異な価値観で染め上げ、支配していく集団がカルト、ということなのだ。

     ただ、この呪縛は体験したことのない者はなかなか理解しづらい。私も実感として分かっているわけではないのだが、それに近いものを、ある音楽作品から感じることがある。

     ワーグナーの「さまよえるオランダ人」だ。女性の誠実な愛による救済劇とされるこの作品だが、ヒロインのゼンタが、私にはカルト信者と重なって見えてしかたがない。

     恋人もいて、毎日を楽しんでいたはずの乙女が、1枚の絵と乳母の話から、誠をささげる女性が現れるまで海をさまよい続ける「オランダ人」の物語に心を奪われてしまう。

     この物語は真実であり、彼を救うのは私しかいない。そうした宗教的確信と使命感で心が占められた彼女は、空想の世界に没頭しているわけでも、新たな恋を夢想しているのとも違う。彼女の中で、価値の転換ともいうべき変容が起き、その心象風景はまるで変わってしまったのだ。

     オランダ人の苦悩と自らの崇高な使命の前には、エリックと共に過ごす時間や歌いながら糸を紡いでいた日常など、それまで楽しかったり、大切だったりしたことがすべてくだらなく、意味のないものに感じられる。暮らしの中にささやかな喜びをみつけて日々を生きている人々が、どうしようもなくバカで劣った者たちのように見えてしまう。

     こうした心の変化は、カルト信者のそれに酷似している。

     同じ年ごろの娘たちを前に物語を歌って聞かせたゼンタは、恍惚(こうこつ)として叫ぶ。

    「誠によってあなたを救えるのは、あたしなのよ!

    神のお使いが、あたしをあなたに会わせてくださいますように!

    このあたしによって、あなたは救われる定めなのよ!」

     彼女の心は、実際に会う前から、すでにオランダ人に完全に支配されている。

     最初はひとつの物語として彼女の話を興味深く聞いていた娘たちも、その異様な態度に驚く。「ゼンタは気が違ってしまったわ」とおびえる。かつては他の娘と一緒に糸車を回していた仲間だったのに、特異な価値観に支配され、すっかり人が違ってしまったのだ。

     あんなにやさしいいい子だったのに、オウムなどのカルトに取り込まれてからは表情も態度も変わり、別人になってしまったという親たちの嘆きを思い起こさせる場面だ。

     ゼンタの宗教的確信と使命感は、いくら恋人だったエリックが説得しようとみじんも揺るがない。むしろ、止められれば止められるほど、確信はいよいよ強固となり、使命感はますます募る、というのは、カルトを巡ってもよくあることだ。

     最後の場面では、父のダーラントやマリーなども一緒になって引き留めるが、ゼンタは一切聞き入れない。そして、オランダ人の後を追って海に飛び込む。

     これはもう、家を出て、カルトに身を投じようとする信者と、それを引き留めようとする家族や友人たちとまったく同じ構図ではないか。オウム真理教の死刑囚の中にも、家族の必死の説得を振り切って“出家”した者がいる。

     そのようなカルト的な心の呪縛が「救済」をもたらすというストーリーには、私にはどうしても抵抗がある。女の自己犠牲をたたえ、それによってのみ男が救われる、というコンセプトも好きになれない。そんなこんなで、私は長らくこの作品が苦手だった。好きな歌手や指揮者が出ているからと、劇場に足を運んでも、なかなか音楽を楽しめない。CDやDVDも買う気になれずにいた。

     そんな状況に変化が生じたのは、つい2年前のこと。びわ湖ホール、神奈川県民ホールなどの共同制作公演を見たのがきっかけだった。青山貴さん、妻屋秀和さん、福井敬さん、横山恵子さん、小山由美さん、高橋淳さん等々、私の大好きな歌い手がそろっていて、気の進まない演目といえども行かないわけにはいかない。というわけで、ダブルキャストの両公演とも観劇した。

     演出はミヒャエル・ハンぺさん、そしてセットと衣装はへニング・フォン・ギールケさんという黄金コンビ。プロジェクションマッピングを駆使した演出は、嵐の場面など、まさに音楽を可視化したような迫力ある舞台だった。人の描き方も、実に細やか。

     そんな舞台の最後の場面。オランダ人役のロバート・ボークさんによる迫真のパフォーマンスを見ているうちに、私のこの作品に対する拒否感がゆるやかに溶けていくのを感じた。

     オランダ人は、必ずしもゼンタの“誠の愛”(私に言わせればカルト的信念)による自己犠牲によって救済されたのではなく、彼女の幸せを願う彼自身の心が、状況を変えたのではないか……と思えてきたからだ。

     彼は、ゼンタにこう語る。

     「なるほど、あなたは私に誠を誓いはした。……だが、まだ神に誓ったわけではない。そこが救いだ」

     誓いを守れなかった女は、永遠の劫罰(ごうばつ)を受ける定め。これまで数知れぬ女たちが、彼の犠牲になってきた。

     「だが、あなただけは救いたい」

     オランダ人は、そう言って彼女に別れを告げる。そして、こう付け加える。

     「さらば、わが救済よ、永遠に!」

     これまで、女性を犠牲にして自分が救われることしか考えていなかった、究極の“自己チュー”男が、初めて己より他者の幸せを優先し、自らの救済を断念した瞬間だ。それを愛と呼ぶなら、初めて愛を知ったことで、彼は救われたのではないか……。

     そう考えると、ここに至ってオランダ人とゼンタとの関係は、カルト的な束縛から、相手を思い合う愛の結びつきへと変わっていったようにも思えた。最後の音楽もこれまでとは違って聞こえてきて、私は初めて、この作品に出会えたような感動を覚えた。このような見方は、作曲家の意図には反するのかもしれないが、そこは許してもらいたい。

     その後は、CDを買い求めたり対訳本を読んだり、それまでの時間を取り戻すように、この作品と関わるようになった。今も、最近購入したCDを聞きながら、本稿を書いている。

     そして、こんなことを思う。

     神の劫罰を受けたオランダ人さえ、自己の気付きによってその魂が救済されたのであれば、この世では許されざる罪を犯した者にも希望があるのではないか。あの12の哀れな魂が、教祖との因縁や呪縛から完全に解き放たれ、自由で安らかな境地にあるよう祈りたい。

    筆者プロフィル

    江川 紹子(えがわ・しょうこ)神奈川新聞社会部記者を経てフリーライターに転身。その後、オウム真理教による一連の凶悪事件などの取材・報道を通じて社会派ジャーナリストとして注目を集める。新聞、週刊誌の連載やテレビの報道・情報番組のコメンテーターとして活躍。近年、クラシック音楽やオペラの取材、アーティストのインタビューなどにも取り組んでいる。

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