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東山官衙遺跡・壇の越遺跡

都市計画を基に整備 県多賀城跡調査研・古川所長が講演「世界的にも貴重」 加美 /宮城

 奈良時代前半に朝廷が今の加美町賀美石地区に造営したとされる「東山官衙(かんが)遺跡」と、その南側にあり役人らの居住地区と推定される「壇の越遺跡」を巡る講演会が9日、同町内で開かれた。8世紀前半に「都市計画」に基づいて築かれたことを示す遺構が出土しており、講師でかつて発掘にも参加した県多賀城跡調査研究所の古川一明所長は「世界的にも貴重な遺跡。もっと多くの人に知ってもらいたい」と呼びかけた。【山田研】

     古川所長によると、壇の越遺跡には「方格地割」と呼ばれる1辺が約100メートル四方の区画を作る形で道路網が整備され、確認された区画は30近く。出土品から奈良時代前半の造営と判明している。

     方格地割都市が古代の加美郡に造られた理由として、古川所長は「蝦夷(えみし)との戦争を遂行するため」と指摘する。聖武天皇は724(神亀元)年に多賀城造営を始めるなど北方の蝦夷への軍事的圧力を強め、その一環として737(天平9)年、多賀城と出羽柵(秋田市)を結ぶ軍事用道路「奥羽連絡路」の建設に着手。正史「続日本紀」には「加美郡を起点とする」との記述があり、連絡路上で「国境近くの要衝の地として、加美に役所や街並みが作られたのでないか」と説明した。

     南北と東西の基幹道路は幅約6メートルで、区画内の多数の柱跡から屋敷が並んでいたことが分かった。この時代に碁盤の目状の街並みが確認されているのは、都や太宰府(福岡県)にとどまり、多賀城などに先行するという。

     さらに古川所長は「蝦夷との戦いの進行状況によって遺跡の姿も変化した」と指摘。連絡路建設が始まった頃から都では伝染病が広がり、聖武天皇は大仏建立に力を入れる一方、北方に勢力圏を拡大する「征夷」はいったん停滞したという。しかし、桓武天皇は平安京(京都市)など都の造営とともに「征夷」に力を入れ、戦闘が各地で激化。東山・壇の越遺跡も、多賀城が蝦夷により炎上した奈良時代終わりごろに「防御設備が強化されたと考えられる」として、▽北と東の山側に広範囲の土塁▽西側に土を固めた築地塀(ついじべい)と門--が建設されたと紹介した。

     古川所長は「都市計画に基づく街並みがきれいに残っている遺跡は、国内だけでなく中国、朝鮮半島を含めても数少なく、学界でも非常に注目されている」と意義を強調した。

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