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欧州ニュースアラカルト

「ハッキング未遂」のロシア人スパイが追放されるまで

ロシア情報部員がサイバー攻撃を試みたOPCWの本部ビル。左後方の建物は現場となったマリオットホテル=ハーグで2018年10月8日午後1時30分、八田浩輔撮影

 オランダ国防省の情報部門が今月4日、化学兵器禁止機関(OPCW)に対するハッキングを試みたロシアの情報部員4人を国外退去処分にしたと発表した。同じ日、米司法省は世界各国でサイバー攻撃の計画に関わったとして、この4人を含むロシアの情報部員7人を起訴した。当局が公開した情報と現場取材から、現代の諜報(ちょうほう)活動を巡る攻防の内幕をたどる。

戻らなかった宿泊客

 舞台はオランダの政治の中心地ハーグ。国際司法裁判所をはじめ多くの国際機関が置かれ、「平和と司法の国際都市」とも呼ばれる。バームクーヘンを半分に切ったような形が特徴的なOPCWの本部ビルはハーグ中央駅から少し離れたインターナショナルゾーンと呼ばれる地区にある。近くには欧州連合(EU)の専門機関、欧州刑事警察機構(ユーロポール)も本部を構える。

マリオットホテルの駐車場から見たOPCWの本部ビル。ロシア情報員は手前のスペースに駐車したシトロエンの車内からサイバー攻撃をしかけた=ハーグで2018年10月8日、八田浩輔撮影

 「宿泊客と話がしたい」。OPCWに隣接するマリオットホテルの受付に、「警察」を名乗った私服姿の捜査員2人が訪れたのは今年4月13日の夕方だった。対応した総支配人のビンセント・パールプラツさんによると、捜査員が名指ししたロシアからの宿泊客4人は同じタイミングでロビーに現れたという。捜査員は、何も知らずに外出しようとした男たちに近づくと「一緒に来てもらえませんか?」と声をかけた。

 パールプラツさんはその様子を見守っていた。「彼らは(捜査員の指示に)静かに従いました。手錠も銃も見えませんでした。私は着いていきませんでしたが、ホテルの外に出ると駐車場の方に向かったと思います」。しばらくして捜査員だけがロビーに戻り、パールプラツさんに告げた。「彼らは今夜オランダを離れることになった。もう戻らない」。それ以上の説明はなかった。

 半年が過ぎてホテル側は事件の詳細を知ることになる。

 今月4日の昼前、パールプラツさんのもとに情報当局の担当者から電話が入った。まもなく開く記者会見で当時の捜査について説明するから中継を見てほしい、とだけ伝えられた。オランダ国防省の記者会見はそれからちょうど1時間後に始まった。

連番の外交旅券

 「オランダ軍情報保安局(MIVD)は4月13日、ハーグにあるOPCWを狙ったGRUのサイバー作戦を食い止めた」。バイレフェルト国防相は記者会見の冒頭に説明を始めた。GRUは「ロシア軍参謀本部情報総局」の略称だ。旧ソ連時代から続くロシアの対外情報部門の一つである。

4月10日に外交旅券でオランダに入国したロシア情報部員たち(左の4人)。オランダ国防省によると、在オランダ・ロシア大使館の職員(右)が出迎えた=オランダ国防省の資料より

 MIVDの発表によると、事件が動き出したのは3日前の4月10日。ロシアの外交旅券を持った4人の男を乗せたモスクワ発の直行便が、ハーグの40キロ北東にあるスキポール空港に着いた。当日の監視カメラの画像には、在オランダ・ロシア大使館の男性職員が空港に4人を出迎える様子が映っていた。

 MIVDはその翌日、4人をGRUの情報部員と特定して行動確認を始めた。公開された旅券によると、4人はアレクセイ・モリニェツ(41)、エブゲニー・セレブリャコフ(37)、オレグ・ソトニコフ(46)、アレクセイ・ミニン(46)の各被告。うち2人の旅券は続き番号で、任務のためにパスポートが発行された可能性もある。セレブリャコフ、ソトニコフ両被告はハッカー、残る2人は補佐役だったとMIVDはみている。

 情報部員たちは11日にレンタカー業者でグレーのシトロエンC3を借りた。欧州ではよくみかけるコンパクトな大衆車だ。同じ日、MIVDに協力国から情報が寄せられ、4人が諜報対象に物理的に近づいてWiFi(無線LAN)の電波を拾い、サイバー攻撃をしかけようとしていることをつかんだ。その標的がOPCWだと分かったのは翌12日。4人が滞在するマリオットホテルの周辺や客室の窓からOPCWの写真を撮る様子が確認されていた。

 13日、情報部員たちはOPCWに面したマリオットホテルの駐車場でシトロエンの荷室にハッキングに使う電子機器を積み、車両後部をOPCWの本部ビルに向けた。記者が後日、現場で確認したところ、駐車場とOPCWの外壁は鉄製の柵を挟んで30メートル程度しか離れていなかった。

情報部員はレンタカーのシトロエンの後部にサイバー攻撃に必要な電子機器を載せ、コートで隠すように覆っていた=オランダ国防省の資料より

 MIVDは、情報部員たちが機器を起動してOPCWのWiFiに不正に侵入しようと試みたことを確認してから動いた。4人はホテルから捜査員らに連行され、同日夜にスキポール空港から民間機でモスクワへ移送された。シトロエンの荷室にはアンテナ、パソコン、電源装置などが見つかり、それらを隠すように黒い男性用コートがかぶさっていた。

化学兵器使用疑惑とOPCW

 OPCWは当時、今年3月に英国南部で起きた暗殺未遂事件で使われた化学物質の調査を進めていた。事件では、英国の二重スパイだったGRUの元大佐、セルゲイ・スクリパリ氏とその娘が重体となった。英政府は旧ソ連が開発した兵器級の神経剤「ノビチョク」が検出されたとして、ロシア政府の関与を指摘。英国に同調した欧米諸国から100人以上のロシア人外交官が追放される事態に発展していた。

 時期を同じくしてOPCWは、シリアの首都ダマスカス近郊ドゥーマで化学兵器が使用された疑惑についても調査に着手する方針を決めていた。欧米諸国はロシアが支援するシリアのアサド政権軍による攻撃と主張する一方、ロシアとシリアの両国は現在もこれを強く否定している。

 ハッキング未遂と「化学兵器」が使われた二つの事件は無関係ではないだろう。記者会見に同席したMIVDトップのアイヘルスハイム氏は、ロシア側がOPCWにサイバー攻撃をかけた狙いは「分からない」と言葉を濁しつつ、こう強調した。「4人はOPCWのネットワークに侵入することだけを目的にオランダで活動していた。分かっているのは、OPCWがこの時、スクリパリとドゥーマの事件を調査していたということだ」

 4人の遺留物には、2万ユーロ(約260万円)と2万ドル(約226万円)の現金のほか、スイスの首都ベルン行きの電車のチケットが含まれていた。パソコンの検索履歴などから、目的地はベルン南東のシュピーツにあるOPCWの研究施設だったと考えられるという。英BBCは、この研究施設では英国の事件で使われた化学物質の試料解析が行われていたと報じている。

オランダ国防省が公開したロシア情報部員が残した4月10日付のタクシー領収書。モスクワのGRUの官舎に面した通りから乗車して空港で降りたと記されていた=オランダ国防省の資料より

激しさ増す欧露の情報戦

 MIVDは、4人がGRUの情報部員であることを示すいくつかの傍証も公開した。一つはモリニェツ被告が残したタクシーの領収書だ。4人がモスクワをたった4月10日付で、GRUの官舎の裏口に面した通りから乗車してモスクワの空港で降りたことが記録されていたという。押収した携帯電話の1台は、その前日にモスクワのGRUの官舎近くで起動されていたことも確認された。

 セレブリャコフ被告のパソコンからは、過去の諜報活動も浮かんだ。2017年末にはマレーシアで使用された形跡があった。これについてバイレフェルト国防相は、2014年7月に発生したマレーシア航空機撃墜事件の捜査情報を標的としていた可能性があると説明した。民間旅客機がウクライナ東部上空で撃墜され、乗員乗客全298人が死亡したこの事件では、自国民に多くの犠牲を出したオランダが中心となった5カ国の合同捜査が続いている。合同捜査チームは今年5月、ロシア軍部隊がウクライナに持ち込んだ地対空ミサイルによってマレーシア機が撃ち落とされたとの調査結果を発表している。

ロシア情報部員が使用したレンタカーのシトロエン。サイバー攻撃に必要な機材を載せた車両後部をOPCW本部(後方の建物)に向けて駐車していた=オランダ国防省の資料より

 4人の情報部員はずさんとも思える足跡を残す一方、諜報員として特徴的な行動もみられたという。MIVDによると、連行時には1人が携帯電話をたたきつけて破壊しようとしたほか、ホテルの自室からごみを持ち去って車に保管し、遺留品に対する強いセキュリティー意識がうかがえたらしい。4人が連行された後に当局による捜索を終えた客室を見たマリオットホテル総支配人のパールプラツさんによると、実際には部屋にいくつかごみが残されており、厳密には「残したくないもの」だけを持ち去っていたようだ。

 オランダ当局が一連の捜査で得た情報は米国や英国などの同盟国にも提供され、米司法当局によるロシア情報部員の立件につながった。今回のように防諜捜査の経緯が詳細に公開されることは珍しい。カウンターインテリジェンス(防諜)の手の内をさらすことにつながりかねないためだ。バイレフェルト国防相は、公開に踏み切った理由を「今回のような行為は許容しないという姿勢を示すため」だと説明した。

 ハーグでの3日間の攻防は、ウクライナ危機以降に激しさを増す欧州対ロシアの情報戦の一端に過ぎない。ロシア政府は、オランダ当局の発表を全面的に否定している。【八田浩輔】

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