オピニオン

人間の多様性を認め、異質な者を理解しようとする──それが「個人の尊重」 法学部 法律学科 教授
押久保 倫夫

2018年11月1日掲出

 弱者や在日外国人、性的少数者などを狙い撃ちするヘイトスピーチは後を絶たず、ネット上では意見の異なる他者を激しく“口撃”する声が飛び交う現代社会。だからこそ、改めて憲法に謳われる「個人の尊重」の重要性が増している。そう語る押久保倫夫教授に、個人の尊重の意義と、我々はそれをどう解釈すべきか話を聞いた。【聞き手・中根正義】

 

 ──先生は日本国憲法に謳われた「個人の尊重」の意義を、研究の柱の一つとされています。では、そもそも「個人の尊重」とは、何を意味しているのでしょうか。

 日本国憲法13条前段には、「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれています。これは人権の最も基礎にある概念であるというのが憲法学者の見解です。憲法は人権を守ることこそが目的で、統治はそれを保証するための手段であると見ることもできます。だとすれば、この13条前段の個人の尊重というのは、日本国憲法で最も重要な条文だと言えると思います。

 では、個人の尊重とはどういう意味か。我々人間一人ひとりはそれぞれ異なった多様な存在である、考えてみれば当たり前のことなのですが、その多様性を相互に尊重していくことを意味します。そして、憲法が国家権力を拘束するものである以上、国家には多様性を尊重することが求められています。

 個人の尊重には2つの意義があると思います。まず、一人ひとりの多様な意思、究極的には生き方を尊重するということ。言い換えれば、「自分の人生は自分で決める」ということで、これはまさに人権全体の根本だと言ってよいと思います。対国家で言えば、国家が一定の価値観でその人の人生を決めてはいけないということになる。国家だけでなく、人が相互に尊重しなければならないということで、家族、究極的には親でさえも子どもに生き方を押し付けてはならないというところまでいくわけです。ただ、自分の人生を自分で決めるには一定の覚悟がいることも事実です。就職や結婚などの人生の岐路で、如何なる決定が正しいかどうかは誰にも分からない。しかし各人はそれを、最終的には何者にも依存せず選び、しかもその帰結は自分で背負わなければならないからです。

 個人の尊重のもう一つの意義として、自分一人ではない、一人ひとり自分の考えを持った人は世界に70億人以上いるということがあります。遠く離れたアフリカで飢餓に苦しむ見ず知らずの人のことも自分や家族と同等に思いやる。あるいはどんなエキセントリックで、好きになれない、どうしても理解できない人でも、その個性を尊重するということ。「個人の尊重」は究極的にはそこまで要請するものであり、高い次元の道徳として「博愛」の思想につながるものです。残念ながら個々人の考えを尊重するという個人主義の考えはまだまだ日本では欠如していると言わざるを得ません。だからこそ、憲法13条でわざわざ個人の尊重と規定している意義があるわけで、その重みを自覚して、規範的にもこれを人権の基礎に据えて解釈していくべきだと考え、これをいくつかの人権分野において行ってきました。

 

 ──個人の尊重が、ドイツ基本法のなかで位置づけられている「人間の尊厳」とどう違うのか、教えてください。

 概括的に言えば人間の尊厳は、「人間」が類概念としての意味を持ち、そこから人間の共通性に焦点を当てる傾向が生じるのに対し、個人の尊重の「個人」は、一人ひとりの人間の異質性、即ち各人の違い、多様性を本質とするという相違が重要です。そこから、前者からは「人間」一般に必要とされる属性を想定して、尊厳主体を限定する(その属性を持たない者を「人間じゃない」とする)潜在的危険が抽象的には存在するのに対し、多様性を本質とする後者にはそういった限定は論理的にできないという長所があります。したがって、日本国憲法では個人の尊重としているのであるから、人間の尊厳と言い換えない方がいいと思います。日本でもだんだん個性を認めようという声が強くなってきたのは良いのですが、例えば今でも学校などでは、周りの人と少しでも違った行動をすると、それが原因でいじめに遭ったりすることを恐れて、それを抑制してしまう子がいる。こうした同一化圧力がまだまだなくなっていない日本にとっては、個人の尊重を人権の基底に据える必要があるのではないかというのが私の考えです。

 

 ──「自律と博愛」がその考えの基となっている個人主義理念に近づけるために、我々はどのようなことを考え、意識していくべきなのでしょうか。

 70数億の人々を自分や自分の家族と同じように尊重することは、厳密に言えば、誰にもできないでしょう。しかし、理念というのはそれに向かっていくものだから、実現不可能だからといって意味がないわけではない。もちろん、実現困難であることは間違いないわけで、そこでは自分と異なる存在、あるいは見ず知らずの人に対する想像力が重要になります。そしてたとえ自分が好きになれない人に対しても、彼らを理解しようと努力し、その個性を尊重することが重要なのです。

 それに加えて、私が大学で目指しているのは議論ができるようになることです。社会的に意見の分かれる問題について、いろいろな資料を見たり、さまざまな人の意見を聞いたりして、自分なりの考えを持つ。議論で最も重要なのは異なる考えの人の意見も真摯に耳を傾けて、何とか理解しようとする姿勢です。そのうえで、理性的な討論を行うこと。まさにこれは、自分と異なる人の考えを尊重する個人主義に他ならないわけです。

 

 ──「個人の尊重」は憲法の中でも基底にある考え方だと思いますが、近年は「相模原やまゆり園」事件や「新潮45」の休刊の経緯といった、ともするとそれがないがしろにされる出来事も少なくありません。

 例えば、2年前に起こった相模原やまゆり園事件は、誰が見てもあの行為は肯定できるものではない。個人の尊重、すなわち多様な個人の在り方を認めない典型的な例だと思います。一方、先ごろ話題になった新潮45休刊に対してはなかなか判断が難しいと思います。言論には言論をというのが基本でなくてはならないことは否めません。ただ例えばですが、ヘイトスピーチに対しても言論で対抗すべきで、ヘイトスピーチも規制してはいけないということになるかというと、一概にそうはいかない。ヘイトスピーチはその人を深く傷つけて、言論で対抗しようという気持ちも萎えさせるというほどならば規制すべきだとの考えもあります。新潮45に関して言えば、この雑誌はほとんど、一方に偏った思想ばかり載せて、その思想に共鳴する人だけが読んでくれれば商業的に成り立つという計算でやっていて、それが破たんしたので休刊という形で手を引いただけだと思います。こうしたことが商売になるということになると、自分たちの気に入った言論だけを読んで、自分の気に食わない意見には全く耳を傾けないという傾向を促進することになる。それを最も危惧しますね。例えば、テレビなら厭でも自分とは反対の意見も聞こえてくる。ところが、ネットでは自分の気に入らないところにはアクセスしないということになってしまいます。

 

 ──とは言え、2020年のパラリンピックを控えて、障がいのある人でも自分の自己表現の一つとして、スポーツに取り組むというように、日本社会がずい分変わってきたという感があります。

 その通りだと思います。ただ、障がい者の権利が認められる反面、弱者だけがいい目を見ているという非難もあるわけです。そうした意見にどの様に対処していくかが重要なのではないでしょうか。

 

 ──今後、取り組みたいテーマは何ですか。

 今までやってきことと関連した分野で言えば、あくまで「個人の尊重」を日本国憲法の人権の基礎とした上で、ドイツの人間の尊厳を導入することは有益ですが、導入の仕方をどうすべきか。それを現在研究しています。ドイツでは人間の尊厳は絶対性を持っていて、それに反することはいかなる理由があってもしてはならないことになっている。しかしこの様な「人間の尊厳の絶対性」に対しては、日独で疑問が呈されています。しかし私は、これを相対化することは人権全体のあり方を変えてしまう恐れがあるものと危惧しています。私は、日本でも人間の尊厳は絶対性を持つものとして導入しないとあまり意味のないものになってしまうと思います。個人の尊重は原則であって絶対性を持つとは言えません。なぜなら、個性はさまざまで、なかには尊重するわけにはいかないものもあるからです。個人の尊重という明文の人権の基礎がある日本において、さらに人間の尊厳を導入するならば、人間の尊厳の絶対性を活かさないと意味はないと思っているので、それを具体的にどうするかを今、研究しているところです。

 

 ──若い人たちへのメッセージをお願いします。

 一つは、自分の人生は自分で決めるという自己の意志の貫徹。そこでは、他者と異なることを恐れないでほしいと思います。今回のノーベル医学・生理学賞の受賞者もそうですが、他の人とは違う発想、アプローチの研究が、多くの画期的成果を生み出しています。とにかく、他者と異なることを恐れないでほしいですね。 そして、たとえ理解できない、好きになれない他者の個性も、それを尊重すること。全く立場の異なる人の言論を聞いたり、読んだりすると、なるほどと思える場合もあります。そうした時は素直に認めて、採り入れるべきところは採り入れていく。逆に、そうした意見を耳にしたり、目にしたりすることで、自分の考えが正しいことを再確認し強化されることもあります。この様に、自分とは異質な者と接触することこそが、自分の人生観や社会観を発展させる契機にもなるのではないでしょうか。

法学部 法律学科 教授 押久保 倫夫 (おしくぼ みちお)

1984年東北大学経済学部卒、1986年早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了、1992年同大学院法学研究科博士課程満期退学、同年東亜大学学術研究所専任講師、1995年東亜大学法学部専任講師、2001年兵庫教育大学学校教育学部助教授、2005年東海大学法学部助教授、2007年東海大学法学部教授。 中心となる研究として、日本国憲法13条前段の「個人の尊重」の意義を、ドイツ連邦共和国基本法1条1項の「人間の尊厳」との対比で明らかにし、これを基礎に据えた解釈論を、人権の各分野において行ってきた。そのほかのこれまでの業績として、憲法制定権力概念の研究、戦前の宮沢憲法学に関する研究など。