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若松孝二とその時代

(12)殴り合いから40年の付き合いに 高橋伴明監督インタビュー

「若ちゃん(若松孝二監督)が、1976年に俺を映画監督として再デビューさせてくれた恩義は感じている。盆暮れの届け物は最後まで欠かさなかったよ」と話す高橋伴明監督=鈴木隆撮影

 連載企画「若松孝二とその時代」第12回は、若松孝二監督同様、ピンク映画から監督人生をスタートさせた高橋伴明監督のインタビューをお届けする。実際の銀行強盗立てこもり事件を題材にした話題作「TATOO<刺青>あり」(1982年)を撮った高橋さんだが、実生活でも若松監督との出会いは酒瓶での激しい殴り合いから始まった。40年に及ぶ付き合いは、付かず離れず「損得抜き」の関係が続き、「分家」として若松プロへ「上納金」を払っていたという。まさに若松プロ内部からは聞くことのできない別の若松孝二の像が浮かび上がった。全国公開中の「止められるか、俺たちを」がまた違った視点で見られそうだ。【鈴木隆】

出会いは酒瓶での殴り合いだった

 --若松孝二監督と知り合ったのはいつごろですか。

 72年の初監督のピンク映画「婦女暴行脱走犯」を作ったころだった。ただ、その前から、若松プロのメンバーで助監督のガイラ(小水一男さん)や(「止められるか、俺たちを」主人公のモデルとなった吉積)恵、足立(正生)さんのことは知っていた。実際に若チャン(若松監督)と会ったのは、彼がパレスチナから戻ってきた後だった。俺のことも分かっていて、自分のところ(若松プロ)の助監督と付き合いがあることも知っていた。

若松孝二監督と高橋伴明監督が初めて話をしたのは1974年。飲み屋で口論となり、酒瓶で殴り合ったが、それから若松監督が死ぬまで約40年間も付き合った。一回り違う若松を、今も「若ちゃん」と親しみを込めて呼ぶ=塩入正夫撮影

 新宿に一緒に飲みに行って、何かの話の流れで「お前、本当に人を殺せるか」って話になった。なんでそんな話になったのか覚えていないけど、気合は入っていて、口論っぽくなった。たしか「小茶」という店の支店だったと思う。いきなりビール瓶で殴られたんだ、加減したとは思うけど。こっちもホワイト(サントリーウイスキー)の瓶で殴り返したんだ。周りのみんなが止めに入って、その場は収まったんだよ。そう、74年だったな。その日が一緒に話すのは初めてだった。

 --知っていたとはいえ、会ったその日に殴り合ったんですか。

 その後、ちょっと落ち着いて、話の続きをし始めたんだ。そうしたら、「お前、うちで本(脚本)書かないか」と、若ちゃんが言い出した。こっちも「考えてみる」と言って、その日は別れた。それが75年の「デルタの掟」と「売春婦マリア」で、初めて一緒に仕事をした。俺が脚本を書いて、若ちゃんが監督したんだよ。まあ、その頃はよく一緒に飲みに行ったよ。殴り合ったのは、若ちゃんのイメージ通りだったけれど、その後我々に手を上げることは基本なかったね。年は13歳ぐらい、若ちゃんが上だけど、その後にケンカをしたこともなかった。

再デビューさせてくれて恩義を感じた

 --若松プロには入らなかった。

 若松プロの助監督をやったことはなかったな。(作り手としての成り立ちが)別の流れという意識はあったし、若松プロの周囲にいる人には「自分たちが本家」って感じがあった。脚本は3本ぐらい書いたな。若ちゃんから頼まれて脚本を持って行った時も、別にもう1本「こんなものも書いた」と見せたら、そっちの方をが気に入って、頼まれた脚本は「お前撮れ」と言われたんだ。俺が撮るなら、もっと違うのもやるし、と思ったけどね。そのころはよくおごってくれたよ。

 --監督としてデビューしてからはどうでした?

 人間関係が嫌になって少しの間、映画(を製作するの)はやめていた。脚本は書いていたけどね。音楽雑誌に記事を書いたり、毎日新聞社の「毎日小学生新聞」でも仕事をしていた。郷ひろみとかタレントの取材や、インタビュー記事を書いていた。スポニチでも事件を追っかけるようなことをしていたな。

 --再デビューはいつですか。

 76年に若松プロで「非行記録 少女売春」を撮らせてもらった。この作品は監督だけ担当した。当時は、若松プロがあった東京・原宿のセントラルアパートへよく行った。若松プロのメンバーは飲み屋で知っていたしね。若ちゃんには、再デビューさせてくれた恩義をずっと感じているんだ。

 --吉積恵さんが亡くなった時のことは?

「止められるか、俺たちを」の一場面。高橋伴明監督は、本作の主人公のモデルとなった吉積恵(左端・門脇麦さんが演じた)が亡くなった時に、遺体が見つかったアパートの部屋にも行った。「仲間の死はショックだったよ」と振り返った=若松プロ提供

 誰か忘れたけれど連絡をくれて、恵のアパートの部屋にも行きましたよ。その時、若ちゃんもいた。若ちゃん、彼女が死んだと分かって言葉が少なかった。プロダクションは違ったけど、同じ業界の仲間が亡くなったんだからね。ショックだったよ。

 --恵さんはどんな人でしたか。

 すねていたというか、世の中に腹を立てている感じがした。それは、自分も一緒だったけどね。若松プロには彼女の前に、浜野佐知さんっていう先輩女性の助監督がいたんだよね。だから、女性の助監督には違和感はなかった。飲み屋での恵しか知らなかったけど、何か偉そうにいろいろ言ってた。でも、光っていたよ。相当飲んでいたし、体も悪そうだった。吐きながら飲んでいたので、内臓に問題があるんじゃないかとは感じていた。

上納金制度があった!

 --若松プロをどう見ていましたか。

 若松プロ自体、「反骨」とか(思想的に)「左」と言われていたけれど、そういう傾向の人が集まっていたのは確かだね。若ちゃんにはインテリジェンスを感じなかったが、それをフォローできる人間が集まっているように感じた。もっと言えば、映画的な事件を起こしてくれそうな雰囲気はあった。そこにひかれる部分はあったね。

 個人的にも、若松プロでやりたい(映画を撮りたい)という思いはあったし、その点ではコンプレックスがあったかもしれない。それで、余計に距離を取っていた部分があったのかもしれない。あのころ、ガイラも恵も助監督をしていたし、その中に割り込めないというか、メンバーじゃないけど(脚本家・映画評論家の)荒井(晴彦)とかもいたしね。

 --ピンク映画へのこだわりもあった。

 もう少し自分がやりたいものと、職業としてのピンクという商品を両立したいという思いもあった。

 左寄り傾向は元々、自分の中にあったし、学生運動でパクられて捕まった後に機動隊にボロボロにされた、という恨みも抱えていた。その思いが出せる映画を作りたかった。再デビューした時に、配給会社や劇場から「こんなの、ピンク映画じゃない」と言われた。世の中に怒りを抱えている若者の話だった。ちゃんとしたピンク、王道みたいなピンクも撮ろうと考えていた。

 --79年には高橋プロを作りますが、若松プロとの関係は?

 うちは分家ですね。だから、若松プロに上納金がいる。製作費の10%ぐらい。

 --相当高いですね。

 しっかり取りますからね、若ちゃんは。後は知恵と勇気で切り抜けるしかない。

 --義理堅いですね。

 そういう性質(たち)なんです。盆暮れの贈り物も、若ちゃんが亡くなるまで欠かしたことはなかったです。まあ、ヤクザ体質なんですかね(笑い)。

 --その後、若松監督はテレビ(映画)をやって、映画製作の間隔も空きます。

 足立さんがパレスチナに行った(74年)のは大きいし、大和屋竺(やまとやあつし)監督も含めて、若ちゃんの映画の背骨みたいなものを作ってきた人たちがいなくなった。そういう意味では軟弱な時代と言えるかもしれない。お金に関しては(制作費などを)回すことができる人だったけど、(本気で映画を作ろうという)気合も入っていなかったんじゃないかな。

 --そのころの2人の関係は。

「若ちゃん(若松孝二監督)とのつきあいは、基本は飲み屋。俺は(若松プロで)助監督をやっていないから、多分、一人の業界人として対等とは言わないまでも認めてくれたんだと思うよ」と語る高橋伴明監督。「我々の関係には損得というのが介在しない。映画屋の体質なんじゃないか」と付け加えた=鈴木隆撮影

 変化は全くない。基本は飲み屋での付き合いだった。

連赤をテーマにした2本の映画

 --高橋監督は連合赤軍を扱った「光の雨」(2001年)を、若松監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」(08年)の7年前に撮りましたね。

 ゴジ(長谷川和彦監督)がずっと前、ディレクターズカンパニー(映画監督9人で82年設立。大手映画会社の制約から自立した映画作家集団で、高橋監督も参加)を作ったころから「連赤」を撮りたいと言っていた。俺も「手伝う」と言っていたが、出てきたシナリオが厚すぎて上映に何時間もかかるもので、なかなか実現しなかったんだ。

 そのころ、立松和平さんの小説「光の雨」の連載が文芸誌で始まり、その小説をベースにして映画化すると、立松さんと約束した。この題材は、誰かがやらねばならないと考えていた。それで映画「光の雨」を撮る際、ゴジと話をして「露払いの映画。後はしっかりやってくれ」と伝えた。この世をよくしようと考えて行動した当時の若者たちを、現代の若者がどう思うか撮ろうとして、ああいった作品になった。

 --若松監督は「光の雨」を見て何と言ったか。

 「光の雨」を作った後に、珍しく飲み屋でワインを1本入れてくれた。「エッ」って思っていたら、ちらっと「頑張ったな」と。続けて「俺もそのうちやるからな」って。若ちゃんがやる気になっていたのは薄々知っていたよ。でも、若ちゃんの「連赤」は、丁寧というか、嫌な意味でなくて教科書っぽいのを含めて、勉強したんだと思う。現場は見ていないけど、完成度が高いとは言えないと思う。

「映画は自由で、闘うべきもの」と教わった

 --振り返れば、若松さんとはどんな人でしたか。

 映画は自由でいい、ということを教えてくれた人。自由かつ闘うべきものだと。特に初期の作品にそれを強く感じた……難解とは違うんだろうけどね。ピンク映画のくくりもあるが、うまく融合しないまま映画になっている。その違和感が面白かったんじゃないか。後はお金の管理がすごい。まねしようと思ったけどできなかった。

 --高橋監督と若松監督の関係性は他にない特殊なものに見えます。

 多分、(若松プロで)助監督をやっていないからね。一人の業界人として、対等とは言わないまでも認めてくれていたからこそ、こんな付き合いができた。高橋プロを作った時点で、上納金の値下げを要求したら素直に認めてくれたしね。

 「TATOO<刺青>あり」以降は飲み代の払いはなぜか俺だったね、そういう人だと思っていたから(仕方ない)。

 --ピンク映画の中では。

 若松プロは訳の分からない映画を作っているプロダクションって感じかな。でも、それがステータスになっている。王道のピンクから見たら、本当に異質の映画だったからね。

 --亡くなった時はどう感じましたか。

 病気に何度もなっていたから、不死鳥も死ぬのかって思った。療養生活に入る雰囲気の人じゃないしね。自分の中では近い人だと考えているし、師匠とは思っていないけど、恩人であることは確かなんです。我々の関係って、損得が介在しないんだよ。

(次回は11月18日掲載予定)

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