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歴史

明治期に埼玉遷都論 幻の本庄首都

本庄宿の田村本陣の門は現在、市立歴史民俗資料館の前に移築されている=埼玉県本庄市中央で、松下英志撮影

 首都・東京の移転論は浮上しては消えることを繰り返しているが、明治初期に現在の埼玉県本庄市へ首都を移す「本庄遷都論」があった。明治政府の元老院(当時の立法機関)議長で、日本赤十字社の創立者が意見書にまとめたものだが、残念ながら正式に審議されることはなく、幻に終わった。江戸期に本庄は中山道で最大の宿場だったうえ、意見書でも立地条件の良さなどが列記されており、日本の顔や中心になれると期待されたことがうかがえる。【松下英志】

     本庄遷都論を唱えたのは、幕末の主役となった「薩長土肥」の肥前・佐賀藩士だった佐野常民(1822~1902年)。勝海舟らと共に長崎海軍伝習所で学び、67年のパリ万博に藩代表として参加。渡欧先での見聞を基に77年、博愛社(のちの日本赤十字社)を創立し、80年に大蔵卿(前任は大隈重信、後任は松方正義)、82年には元老院議長に就任した。87年に日本赤十字社の初代社長となって子爵(のち伯爵)を授かり、92年に第1次松方内閣で農商務大臣も歴任。現在、佐賀市には彼の記念館が建っている。

     本庄遷都の意見書を書いたのは78年で、明治11年。佐野は当時、元老院を構成する議官だった。明治政府は発足時に大久保利通の大阪遷都論、岩倉具視の東西両京(京都、東京)併置論などを退け、首都を東京に定めた。だが、佐野は▽江戸湾からの艦砲射撃の着弾距離にある軍事的理由▽消費都市として発達したため風俗浮薄の傾向があり学校や兵営(兵隊の居住舎)の所在には不適当という風俗的理由▽土地の低さなどにより伝染病流行の恐れがある疫学的理由--などから、東京は首都に不適とした。

     その上で、東京は商業や貿易の都市とし、政治や文教の中心となる首都は内陸に選ぶべきだとして、候補地に武州(埼玉県など)の熊谷や本庄、上州(群馬県)の前橋や高崎などを列挙。このうち前橋は水利がよくなく、高崎は山に近く風が寒いなど、土地の高低や陸水運、水源などの観点から検討。その結果、本庄は気候も寒くなく、水運の利があり、飲料水も「清冷で健康を保つことに疑いをいれない」などとして、本庄が最も適当だと結論づけた。

     また、「中山道に鉄路を敷き直ちに東京の線路に通じむべし途中(中略)すべて平衡の地たり」などと、東京との間で鉄道を敷設しやすいことなどにも触れている。

     意見書を「発掘」したとされる慶応大法学部の手塚豊教授(故人)が1961年に学部内誌「法学研究」に寄せた論考によると、意見書は元老院の罫紙(けいし)を使って起草され、佐野は正式提案に先立ち、他の議官に写本を配布して意見を聞いた。その結果、賛同を得られないと見通して正式提案を取りやめたと思われ、実際、この意見書が元老院会議に提出された形跡はないという。

     歴史に「もしも」はないとされるが、意見書の内容は本庄がいかに住みやすいかを示したと言える。そこには次のような一節もあった。「水極めて澄徹(ちょうてつ)にして味甚だ清冽(せいれつ)(中略)天賦の美泉なり(中略)飲料に供せば決して東京玉川神田上水の下にあらず」

    本庄宿

     江戸期に整備された中山道は江戸と京都を結び、途中69の宿場が設けられた。1843年の書物「中山道宿村大概帳」によると、宿場の人口は本庄4554人、家の数は同1212で、共に中山道最大。旅籠(はたご)屋の数も深谷80、塩尻(長野県)75に続き本庄は70で3番目だった。ただし大名などが泊まる本陣は2軒で、中山道を挟んで北に田村本陣、南に内田本陣があった。幕末に皇女和宮が宿泊(61年)したほか、新撰組(当時は浪士隊)の芹沢鴨が宿のないことに怒って宿場の真ん中でたき火を始めた「大かがり火事件」(63年)が知られている。

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