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メキシコの麻薬王・エルチャポ裁判傍聴記(4)大勝利の米検察 それでも新たな「王」が生まれる

有罪評決後、記者会見したエルチャポの弁護団。リッチマン(中央)は「精いっぱい闘った」と話した=ニューヨーク市ブルックリン地区の連邦地裁で12日、國枝すみれ撮影

 ニューヨーク市ブルックリンの連邦地裁で昨年11月から3カ月間続いたメキシコの麻薬王ホアキン・グスマン(通称「エルチャポ」)を被告とする陪審裁判は2月12日、検察の大勝利に終わった。陪審員12人は、検察が求めた10の罪すべてに有罪の評決を下した。

 「有罪」「有罪」「有罪」――。判事が評決結果を読み上げていく。終身刑となることが確実になったエルチャポは傍聴席の妻エマ・コロネルを見た。コロネルは腕を交差させて抱きしめるサインをし、エルチャポは胸に手を当てた。「大丈夫だ、分かっている」とでもいうように――。

 「30年間のキャリアの中でこれほど複雑で細部に注意を払う必要がある陪審裁判はなかった」。判事はそう感想を述べ、「素晴らしい仕事をした」と陪審員をねぎらった。無作為に選ばれた一般市民が他人を裁く陪審制度は、市民の能力を信頼する社会でなければ成立しない。判事は「アメリカ人として誇りに思う」と語り、うれしそうに閉廷を宣言した。

 量刑は6月25日に決まるが、仮釈放なしの終身刑となり、米コロラド州にある刑務所に送られる見通しだ。有罪評決が出た後、エルチャポは意気消沈する弁護団を励ましたという。弁護士のジェフリー・リッチマンは「普通は逆なのに。彼はとても前向き(ポジティブ)な人間だ」と言う。

もしや脅されているのでは?

 私も有罪評決が出て、心の底から安堵(あんど)した。陪審員は2月4日から評決を決めるための評議に入った。陪審員は月曜日から木曜日まで、毎日午前9時すぎから午後4時半近くまで裁判所に詰めるが、1週間たってもまだ評議が終わらない。数が限られた傍聴席に座るため午前2時、3時から裁判所に来る記者たちの間にも疲れがたまっていた。

 なぜこんなに時間がかかるのか。もしや陪審員の一部がシナロア・カルテルに買収されたり、脅迫されたりしているのではないか。暗い臆測が心をよぎった。12人の陪審員のほとんどが黒人やヒスパニック系などのマイノリティーで、8人は女性だった。名前や住所、職場は隠され、裁判所への出入りは護衛がつく。とはいえ、陪審員とエルチャポは法廷で対面しており、間にスクリーンはない。傍聴席にはエルチャポの妻や関係者もいる。AI(人工知能)で顔認証ができる時代だから陪審員の身元が突き止められているかもしれない。メキシコではカルテルが裁判官の自宅前にブタの首を置いて脅した事例もある。

 「どうして陪審員の前にスクリーンがないの?」。弁護士のリッチマンに聞いてみた。「ここは米国だからだ」。弁護士は少しむっとして答えた。弁護士や検察官にとって陪審員の顔を見ながら訴えることはとても大事なのだという。「その権利を奪うのか?」

 評決を聞いて分かった。6日間もかかったのは、本当に丁寧に審議したからだ。1月末に配られた「バーディクト・シート」には、麻薬密輸犯罪組織の運営、コカインの密輸、資金洗浄(マネーロンダリング)など10の罪が記載されていた。陪審員はこのシートに有罪、無罪を書き込んでいく。2016年に起訴された時の起訴状では17の罪だったので、だいぶ絞り込まれたが、それでも8ページある。内容はきわめて複雑だった。

 陪審員は26件のコカイン密輸事件のうち2件については「証明された」と判断しなかった。その他の密輸事件は全部、「証明された」と判断し、殺人の共謀についても「証明された」と判断した。

すべてを盗聴した米捜査当局

ダイヤモンドと金が埋め込まれたエルチャポ愛用の拳銃。JGLは、エルチャポの本名ホアキン・グスマン・ロエラのイニシャル=裁判資料から

 米国VSエルチャポ――。この訴訟を傍聴して、米国の捜査能力に脱帽した。何年間もかけて集めた膨大な数の物証、エルチャポの周辺の人物を逮捕して捜査側の協力者に仕立て上げ、じわじわと中核に迫っていく捜査手法に息をのんだ。

 エルチャポは電話やメールを盗聴されないよう気を配っていた。コロンビア人のIT専門家を雇い、暗号化したネットワークを構築させた。裏切りを警戒し、部下や愛人らの位置を探知し、盗聴できる仕組みを作らせた。米捜査当局はこのIT専門家を寝返らせ、エルチャポの電話やテキストメッセージの交信内容をごっそり入手したのだ。

 エルチャポのコカインを米国で密売していたシカゴ出身の双子の密売人はカルテル同士の紛争に巻き込まれて殺される危険を感じ、米国の捜査当局に協力することに同意。エルチャポとの取引の電話を録音して捜査当局に渡した。

 捜査当局はまた、密輸業者の連合体であるシナロア・カルテルにうまくくさびを打ち込んだ。麻薬密輸業者は、敵やライバルの情報を当局に漏らして逮捕させることがある。エルチャポの弁護士が元部下の証人を「政府の協力者になった裏切り者」と批判した時には、「彼(エルチャポ)こそ米麻薬取締局(DEA)に情報を流していた当人」「俺が逮捕されたのは彼(エルチャポ)のせいだ」と正面から反論する者もいた。

切るカードがなかった弁護側

 検察側の証人は56人。弁護側の証人はわずか1人。弁護側が打てる手はかぎられていた。

 12人の陪審員を説得する最後の機会となった1月31日の最終弁論(クロージング・アーギュメント)。弁護士のリッチマンは、検察側の証人を「信用するな」と5時間半にわたって訴えた。陪審員が証人に不信を抱いて合意できず、陪審評議がまとまらないことを狙ったのだ。評決を出せなければ、裁判はやり直しとなる。

 「コカインを毎日使って鼻がもげた男。逮捕を避けるため、顔や指紋、耳まで整形手術で変えた男。下着をかえるように人を殺す男。人生でずっとうそをついてきた人たちの話を信じるのですか?」

 検察側の証人の中で鍵となる証言をしたのは、エルチャポの身近で働き、米政府と取引した「協力者」14人だ。この大半は麻薬密輸罪などで服役していたり、裁判の途中だったりする。

 「減刑してもらうためにうそをついている」。リッチマンは断言した。「エルチャポを有罪にできても、やつらは釈放される。こんなに危険なやつらを自由にしていいのか。その代償を誰が払うのか。彼らがうそを言うのを止められるのは、あなたたち陪審員だけだ」

 リッチマンはさらに、シナロア・カルテルの本当のリーダーはこれまで一度も逮捕されたことがないイスマエル・サンバダ(通称エルマヨ)だと断じた。そして、エルマヨがメキシコ政府や軍に賄賂を配って、エルチャポを逮捕するよう仕向けたと主張した。

 検事のアンドレア・ゴールドバーグは、その前日に6時間の熱弁をふるった。「被告はこの日がくることを何より恐れてきた。すべての罪で有罪にしてください」。いまこそ司法の裁きを、というわけだ。

エルチャポの本拠地はメキシコ西部シナロア州だ。同州のエリート警察部隊は軍と変わらない重装備で、身元が特定されないようマスクで顔を隠している=シナロア州で2012年、國枝すみれ撮影

 ゴールドバーグは、米国市場に麻薬を密輸、密売して巨額の利益を上げる「国際犯罪企業」がシナロア・カルテルだと説明した。企業が新規ビジネスに投資するように、複数の密輸業者が密輸に投資し、利益と損失を分けあうシステムだ。エルチャポとエルマヨは対等の関係だった。麻薬取引で得た利益を半分に分けるかわりに、麻薬が押収された場合の損失も半分ずつシェアした。そしてエルマヨこそ主犯だという弁護側の最終弁論への予防線を張った。エルチャポが唯一のボスでなかったとしても、主要なボスの一人だと証明されれば有罪になるのだ、と。

 エルチャポは、隠れ家すべてに脱出用トンネルを設置し、邸宅には電車で回る動物園があり、ダイヤモンドが埋め込まれた拳銃を持ち、刑務所内からも殺人の指令を出していた。検察官は力を込めた。「常識的に考えてください。ボスでなくて、誰がこんなことをできますか?」

 弁護側の証人攻撃に対しては、「法廷で偽証したら司法取引は取り消される」と指摘し、「証人がうそをつく理由はない」と一蹴した。

密輸やまず、凶暴化

 評決の日は雪だった。裁判所の前で行われた記者会見には、DEAや連邦捜査局(FBI)の捜査官らが並んだ。

 「米国の司法制度の歴史的勝利だ」。国家安全保障省特別捜査官のアンヘル・メレンデスは力を込めた。「麻薬密輸に従事した者は、誰もアンタッチャブルではない。必ず捕まる日がくる」。スペイン語で同じ内容を繰り返したのは、メキシコのカルテルに伝えたかったからだろう。

 メキシコのNGO「Impunidad Cero」による政府統計の分析によれば、メキシコでは殺人事件の9割近くが未解決に終わっている。メキシコを恐怖に陥れたエルチャポが米国できちんと裁かれ、有罪になったことは、カルテルに殺された犠牲者の家族に一時の平穏をもたらすだろう。

 だが、何か変わるのだろうか。

 メキシコ紙レフォルマのダイアナ・バプティスタ記者(29)は首を振る。「確かに正義の鉄ついは下されたが、米国という他人の手によってだ」。カルテルから賄賂を受け取ったと名指しされたメキシコの政治家や軍人に捜査の手が伸びる気配はない。密輸業者たちは伝説的な麻薬王エルチャポの有罪評決にショックを受けるだろうが、だからといって、密輸をやめることはしない。法外な金が稼げるからだ。

 米国人カメラマンのアンドレア・レナルトは法廷でコロンビア人の友人の言葉を思い出していた。友人は医師で、麻薬王パブロ・エスコバルが母国に押した烙印(らくいん)に心底迷惑していたが、あるとき麻薬ビジネスの本質に触れるドライな感想をもらした。「こんな好機を見逃すビジネスマンはいない。種を植える前から市場があり、決してなくなることはないのだから」

 シナロア・カルテルはエルチャポが16年に逮捕された後も、エルマヨの下で密輸を続けている。一つのカルテルが弱体化しても、他のカルテルが強大化する。麻薬王が逮捕されても新たな王が生まれるのだ。

 メキシコ政府がカルテル掃討作戦を開始した06年12月以降、シナロア・カルテルを頂点にした密輸社会のヒエラルキーが崩れ、米国市場への密輸ルートを奪い合うカルテル同士の抗争が激化した。軍や警察との衝突に巻き込まれる市民も急増。「麻薬戦争」と呼ばれるこの紛争で25万人以上が死んだとされる。

検察が公判で示したエルチャポによる麻薬密輸の仕組みを描いた地図。エルチャポは南米コロンビアからコカインを密輸し、ロサンゼルスやシカゴ、ニューヨークで密売した。キログラムあたりのコカインの値段が米国で急騰し、利益を上げていることが分かる=裁判資料から

 カルテルは細分化し、凶暴化している。メキシコでは昨年、3万3341人が殺人事件の犠牲者となった。【國枝すみれ、敬称略】(この項終わり)

國枝すみれ

1991年入社。英字新聞毎日デイリーニューズ編集部、西部本社福岡総局で警察担当記者、ロサンゼルス支局、メキシコ支局を経て、2016年4月からニューヨーク特派員。05年、長崎への原爆投下後に現地入りした米国人記者が書いたルポを60年ぶりに発見して報道し、ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。

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