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クトゥーゾフの窓から

ウクライナ危機の現場を歩いた(3) クリミアが見た北方領土問題 3月初旬@クリミア

 クリミア南西部にある保養地のヤルタは大人でもふらつくほどの強風が吹いていた。街中から数キロの地点にあるリバディア宮殿は、日本にとって因縁浅からぬ地である。帝政ロシア最後の皇帝ニコライ2世が建てた離宮は1945年2月、米ソ英の3カ国首脳が顔をそろえた「ヤルタ会談」の開催場所だったからだ。

1945年2月にヤルタ会談が開かれたリバディア宮殿=ウクライナ南部クリミアのヤルタで2019年3月1日、大前仁撮影

 戦後の国際秩序を決めた会談では、ソ連が対日戦線への参戦を約束する一方、現在の北方領土(ロシア語でクリル諸島)を含む千島列島を自国領に組み込むことで同意を取り付けた。このときの密約が北方領土問題として残されて、日露の間に立ちふさがっている。

ウクライナの地図

「誰も住んでいない島を、なぜ返してほしいんだ?」

 ヤルタ会談から74年。舞台となったクリミア(ロシア語でクリム)をはじめとして、ウクライナ国内では北方領土問題への関心が高まっている。当然ながら、今年1月から日露の平和条約交渉が本格化しているからだ。私はウクライナの行く先々で「クリルの交渉が始まったね。どう思っている?」と尋ねられた。善意で解釈すれば「我々もロシアとの領土問題を抱えてしまった。お互いにがんばろう」というエールとして受け取れる。逆に「どうせロシアが日本に島を返すわけがないだろう」という冷笑が含まれていると感じる時もあった。

 ヤルタまで同行したのは、クリミアで取材を助けてくれたロシア系の男性だ。かつてインターネットメディアで働き、今は地元政府で広報を担当する28歳。この男性も例に漏れず、平和条約交渉について尋ねてきた。

 「そもそもクリルには、どれくらいの日本人が残っているんだ?」と素朴な疑問を投げてきた。

 「一人もいないよ。ソ連が第二次大戦の後で全ての日本人を追い出してしまったからね」と即答する。

 男性は不思議そうな表情になった。「もう一人も住んでいないのに、どうして島を返してほしいんだ?」

 なぜ彼がこのような質問を発したのか? ここで手短にクリミアの歴史にふれてみよう。15~18世紀はモンゴル帝国の血を引くクリミア・タタール人が統治していた。その後、帝政ロシアが18世紀末に自国領に組み込み、多くのロシア人が移住した。しかしソ連時代の1954年に後世の火種がまかれた。最高指導者のフルシチョフが行政手続きの一環として、クリミアの所轄をロシア共和国からウクライナ共和国へと移管したのだ。ところがソ連は91年に崩壊し、クリミアを領内に置いたままウクライナは独立国となった。この事態に、人口の6割超を占める現地のロシア系住民が強く反発した。

 ロシアに住む愛国的なロシア人はクリミア半島に多くの同胞が残されたと考えるようになり、現地のロシア系住民も「本国への復帰」を訴え続けた。そして運命の2014年3月。前月に起きたウクライナの政変が引き金となり、ロシアは力ずくでクリミアを取り戻した。

 北方領土問題に戻ろう。私に同行した男性はソ連崩壊直前に生まれ、独立したウクライナで育ったが、常に「ロシア人」だと自覚していたそうだ。クリミア半島に取り残された身として「祖国」への復帰を願い続け、5年前に夢がかなった。自らの体験を踏まえると、すでに北方領土に日本人が残されていないのに、日本政府が返還を求める理由を理解できないという。もはや同胞が一人もいないのに、なぜ求め続けるのか?

「日本は経済的な理由で返還を求めているの?」

 「それならば日本は経済的な関心から、返還を求めているのか?」。男性は質問を変えてきた。

 再び答えはノーである。今の日本政府は「日ソ共同宣言」に基づき、歯舞群島と色丹島の「2島返還」で幕を引く方針に転じたといえる。もし両島を日本領に再編成できれば、排他的経済水域(EEZ)を広げることができる。だが、経済的な権益はこの程度に限られている。

 現在の日露両政府は北方領土での共同経済活動を検討しているが、この計画が実現したところで「利益はたかが知れている」(ロシアの担当官)。むしろ返還が実現すれば、日本は島を引き払うロシア人への補償を行わなければならず、支出の方が大きいのは確実だ。そう男性に説明した。

譲れない内政問題として

 それではなぜ? 再び不思議そうな表情を見せた男性に対し次のような説明を試みた。

 「北方領土問題は日本にとって内政問題だ。そしてモラル(道徳)の問題でもある」。日本が当時のソ連と平和条約交渉を始めてから六十数年たつ。政府が北方領土返還の必要性と意義を訴え続けたことにより、日本国内では譲れない問題へと発展していった。「ソ連が不法占拠したのだから、『法と正義』の原則に基づき返すべきだ」。今でも大多数の日本人が信じて疑わない。

 このような思考回路が定着した日本人にとって、北方領土とは「返還されるべき領土」である。また対露関係は常に領土問題というフィルターを通してでしか考えられなかった。これらの点を説明しない限り、男性に理解させることができないだろう。

 「なるほど、それならばわかる」

 意外にも?男性は納得した表情に変わった。なぜならば14年の編入が実現するまで、クリミア問題はロシア本土でも現地でも、重要な内政問題だったからだ。自らも「領土の返還」を唱えてきた手前、その論理立てはスッと入ってきたというのだ。

 ちなみに男性は旧ソ連諸国でロシア系住民が多い地域について、ロシア領に再編されるべきだと信じている。「ルースキーミール」(ロシアの世界)と呼ばれる思想だ。これまでもプーチン政権が自国の影響圏を拡大する戦略として、積極的に広めてきた。当然、北方領土の返還には反対している。「どうせ日本が単独で平和条約問題について判断できないに決まっている。アメリカが邪魔してくるだろうし」と鼻で笑った。

 今のロシアでは米国への嫌悪感がとどまるところをしらない。その同盟国である日本との間で平和条約を結べるのだろうか? 「無理に決まっているさ」と男性は繰り返した。

絡み合う「クリム」と「クリル」

 ロシアがクリミアを強制編入したことは、北方領土問題の行く手にも影響を与えている。クリミアを取り戻したことにより、愛国心を高めているロシア国民だ。北方領土問題についても、従来以上に譲歩しなくなっている。

 安倍晋三首相が1月にモスクワを訪れる前日には、市内で北方領土の返還に反対する集会が催された。会場で掲げられたプラカードには「我々のクリム(クリミア)」と書かれた下に「我々のクリル(北方領土)」とも記されていた。

北方領土返還に反対する集会では「我々のクリム(クリミア) 我々のクリル(北方領土)」と書かれたプラカード(右上)が掲げられていた=モスクワで2019年1月20日、大前仁撮影

 ただし別の側面も浮上している。クリミア編入の代償として、ロシアは欧米諸国との関係を決定的に悪化させた。外交の機軸を修正し、アジアや中東諸国との関係拡大に力を入れている。日本との平和条約交渉に踏み出したのも、その一環ではないだろうか。モスクワの外交サークルでは、このような指摘が出始めている。

 数年前のことだ。クリミア編入の余波を受け、主要7カ国(G7)がロシアへの締め付けを強める中、安倍政権は対露関係の改善に乗り出した。その時に二つのキーワードを使った発言を耳にしたことがある。「日本にとって『クリル』は『クリム』よりも重いんだ」。対露交渉チームの一人が言い切っていた。

 七十数年前に「クリム」で催された会談が「クリル」の問題の発端となった。そして「クリム」後の国際情勢が混迷としていく中、ロシアが日本に注ぐ視線にも変化が生じているのかもしれない。その点では「クリム」と「クリル」が複雑に絡んでいると言えるだろう。

 ヤルタ会談の開催地からは黒海が望める。暴風が吹き付ける中、大きな波が打ち寄せては引き、打ち寄せては引いていた。この先に平和条約交渉で大きな波が打ち寄せてくることはあるのだろうか。まだまだ先は見えてこない。【大前仁】

ヤルタ会談の開催場所からは黒海が望めた=ウクライナ南部クリミアのヤルタで2019年3月1日、大前仁撮影

大前仁

モスクワ支局記者 1969年生まれ。1996年から6年半、日経アメリカ社でワシントン支局に勤務。毎日新聞社では2008年から13年まで1回目のモスクワ支局に勤務。

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