メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

ALL FOR 2020

東京へ ともに歩む

毎日新聞

第2回パラリンピック東京大会開会式で入場行進する選手ら=東京・代々木で1964年11月8日撮影

オリパラこぼれ話

1964年の第2回パラリンピック東京大会 開催に情熱を注いだ医師

 秋晴れの下、陸上自衛隊音楽隊が奏でる曲にのって車いすを使う選手たちがきれいな隊列を組んで入場した。力強く選手宣誓をする選手の後方では、日本選手団長が付き添い見守った。東京五輪閉幕から半月後の1964年11月8日、東京・代々木で第2回パラリンピック東京大会開会式が行われた。

    第2回パラリンピック東京大会開催に情熱を注いだ中村医師=東京・代々木で1964年11月11日撮影

     当時の正式名は国際身体障害者スポーツ大会第1部の第13回国際ストーク・マンデビル競技大会。同大会はパラリンピック起源の英国・ロンドンのストーク・マンデビル病院で開催した脊髄(せきずい)損傷により車いす生活を送る脚の不自由な人のための競技会だ。日本はすべての障害者が参加可能なパラリンピック大会の開催を模索していたが、車いすの大会以外は(競技ごとの)ルールがまちまちで、国際大会を実施するほどの経験がなかった。そのため第1部を車いすの選手の国際大会として開いた。同大会は89年に東京パラリンピック大会と位置付けられた。第2部は車いす以外の障害者の日本選手と西ドイツの招待選手による国内大会とした。

     東京パラリンピック大会は日本の53選手を含む21カ国・地域の約370人の選手が参加。5日間で9競技を実施した。日本は初めての参加で、卓球ダブルスC級クラスで福島県の渡部藤男選手、猪狩靖典選手のペアが日本人第1号の金メダルに輝いたほか、銀メダル5個、銅メダル4個を獲得した。

     日本初のパラリンピック大会開催に向けた功労者のひとりは、大分県にある国立別府病院整形外科科長の中村裕(ゆたか)医師だ。60年にストーク・マンデビル病院に留学。ルートビヒ・グトマン医師が提唱するスポーツを通じて、早期に社会復帰を果たす脊髄損傷患者の姿を目の当たりにした。帰国後日本でも同様のリハビリを取り入れた。「患者の病状が悪化するのでは」などの非難の声が上がり、なかなか理解を得ることが難しかったが、それでも中村医師の情熱は消えなかった。障害者スポーツの普及のために地元で協会をつくり、61年に第1回の大分県身体障害者体育大会を開催するなど力を注いだ。さらに、翌年のマンデビル競技大会に患者2人を選手として派遣し、障害者の国際大会参加をアピールした。

     東京パラリンピック大会では、それまでの実績から日本選手団長を務めた。そこで日本人選手と外国人選手を取り巻く環境や状況の違いを知ることになった。外国人選手の多くは健常者と同じように仕事を持って生活していたのに対し、日本人選手は53人中わずか5人が時計修理や印刷業などを営んでいるだけだった。一方、日本の選手たちも外国人選手が明るい表情で他国の選手と陽気に交流する姿には驚きを受けた。日本人選手の多くは病院や療養所で人目につかないようひっそりと暮らしていた。選手村で外国人選手と接した日本人選手からは「外国人選手が陽気でいられる背景は(その国の)身障者に対する社会一般の理解があり、人格が社会から認められている」などの感想が寄せられた。大会後、日本人選手の中には企業に就職したり、資格を活用して独立したりするなど自ら社会復帰した人もいたという。

     64年大会を機に日本の障害者スポーツは発展し、陸上競技などでプロ選手も誕生している。56年ぶりに開かれる来年8月の東京パラリンピック大会は、22競技で過去最多の540種目が行われる。同じ都市で2度の夏季パラリンピック大会を実施するのは東京が初めてだ。

     64年大会で改めて国内に障害者が自立するための施設の必要性を認識した中村医師は「保護より(働く)機会を」と65年に私財を投じて、故郷の別府市内に障害者が働くことのできる施設「太陽の家」を創設。愛知県などにも施設を増やした。オムロンや三菱商事、ホンダなどの企業と共同出資会社を設立し、雇用の場を提供している。中村医師は84年に57歳の若さで病気のために亡くなった。それから30年余。「太陽の家」所属の木谷隆行さんは2016年のリオデジャネイロ大会で、ボッチャ団体の日本代表チームのメンバーとして銀メダルを獲得した。中村医師の情熱は今も受け継がれている。【関根浩一】

    関根浩一

    東京本社オリンピック・パラリンピック室委員。1985年入社。東京本社事業本部、千葉支局、成田支局、情報編成総センターなどを経て、2017年4月からオリンピック・パラリンピック室。サッカー観戦が趣味でこれまで多くの日本代表戦に足を運んでいる。最近はスコッチのソーダ割りを飲みながらボサノバを聴くのが楽しみ。