米軍新型輸送機オスプレイが重低音を響かせながらフェンスの先の滑走路に降下していく。沖縄県宜野湾市の中心部を占める米軍普天間飛行場。200メートル離れた場所で暮らす玉那覇祐正(たまなは・すけまさ)さん(86)の古里は太平洋戦争末期の沖縄戦の後、このフェンスの中にのみ込まれ消えた。
「目を閉じれば、懐かしい光景が全部浮かんできます」。古里は戦前、宜野湾村(当時)の中心地だった。街道に並ぶ料亭や商店、かやぶきの家屋、郊外に広がる芋やさとうきびの畑。とりわけ、国の天然記念物に指定されていた約6キロの松並木は村人の誇りで、子供たちの格好の遊び場だった。
そんなのどかな集落に日本軍が来たのは地上戦1年前の1944年ごろ。国民学校や玉那覇さんの家に軍人が駐屯し、授業は松林の下での青空教室に。その年の10月10日には米軍の大規模な空襲で那覇市の9割が焼失した。避難者が村に押し寄せる光景に、玉那覇さんは「これから戦争が来る」と子供心に直感した。父は兵員補充のため「防衛隊」として召集された。
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