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東京へ ともに歩む

毎日新聞

建築家の隈研吾さん=東京都港区で2019年6月15日、北山夏帆撮影

東京・わたし

「静かな幸せを」建築家・隈研吾さんが新国立競技場に込めた想い

 2020年東京オリンピック・パラリンピックの主会場になる新国立競技場をはじめ、高輪ゲートウェイ駅などの設計に携わる隈研吾さん(64)。大会後の会場や施設の活用について、人が集まることのできる空間づくりが大事だと提唱します。【柳沢亮】

     ――建築家を目指すきっかけは1964年の東京大会だったそうですね。

     ◆64年の東京オリンピックが開かれたとき、僕は小学4年生でした。その頃、父親に連れて行ってもらった国立代々木競技場第1体育館が圧倒的にかっこよかったなあ。屋根をつり下げる2本の柱は天に伸び、低い建物を見下ろしている感じがありました。中に入ると天井はとても高く、天窓から差し込む光がプールの水面に反射してキラキラしているんですよ。違う世界のとんでもない建物に出合うという初めての体験にショックを受けました。それまで建築家という職業を知らず、猫が好きだったから獣医師になりたかったのですが、人生の転機になりました。

     ――東京1964大会の記憶は?

     ◆米国のドン・ショランダーという金メダルを4個取った競泳選手を覚えています。テレビで見ていましたが、かっこよかったし強かった。政治や経済、文化など米国が全てだと思っていた時代。だから、いっそう圧倒されました。

     それから、開会式の選手たちの行進は整然と並んでいてつまらなかった半面、閉会式は選手たちの隊列が崩れたり、選手が抱き合ったりしていたことですね。夜に大人が遊んでいる雰囲気が楽しそうで、うらやましかった。

     ――隈少年に「東京」への憧れはありましたか。

     ◆僕は幼少期、シニカル(冷笑的)な目で「東京」を見る観察眼を養いました。暮らしていた横浜市の大倉山は、田んぼや畑の世界が広がっていました。東急東横線の中でも一番の田舎で、例えるなら戦前の日本。渋谷はターミナル駅として光り輝いていて、そこにはしっかりと高度経済成長期の「1964年」があり、30年ぐらいタイムスリップした気持ちでした。

     幼稚園や小学校は7駅先の田園調布(東京都大田区)に通っていましたが、その間の各駅にいる友達の家に遊びに行くと、経済の程度やセンスがわかるのです。金持ちで大きい家だけれど、成り金趣味でセンスが悪いとかね。僕の家は戦前に建てられた木造の小さな家だったから、お金のある「東京」を意地悪な目で見ていました。

     ――その観察眼が、木という素材を生かす現在のスタイルにつながっているのですか。

     ◆東大の建築学科で教わるのは、コンクリートで大きい建物がすばらしいという価値観でした。87年に事務所を始めた頃も「みんなででっかい建物を造ろう」という時代。ずっと違和感がありましたが、僕自身もバブル経済に翻弄(ほんろう)されていました。

     その後、バブル崩壊前後から通い始めたのが、高知県檮原(ゆすはら)町です。木造建築に魅せられて、田舎の良さに目覚めた。僕の家にあった「小さな幸せ」にも似ていると気がつきました。コンクリートから木へ、という転換の原点です。木は魔法の素材だと思います。コンクリートと同じ空間を造っても異なる空間のように感じ、よりリラックスできる。そもそも人類は森から出てきたから、遺伝子レベルでつながっていてリラックスしちゃうんじゃないかなあ。

     ――檮原町の建築群や新潟県長岡市役所「アオーレ長岡」、東京都豊島区の区役所など、隈さんが関わる建築に共通するものはありますか。

     ◆やさしさを感じてほしいです。

    新国立、丹下健三さんの建物とは対局

    インタビューに応える隈研吾さん=東京都港区で2019年6月15日、北山夏帆撮影

     ――新国立競技場は東京2020大会のシンボルです。設計に込める思いを教えてください。

     ◆建築家を目指すきっかけになったオリンピックに思い入れはあります。丹下健三さんが設計した代々木競技場は、僕にとって大事な建物だから意識したけれど、逆にどこまで違う建物を造れるかに挑戦したいと思った。丹下さんの建物はコンクリートで天にそびえるけれど、僕たちの建物は対極。木の素材を使って、地をはうようにできるだけ低くしようと考えました。(白紙化された)ザハ・ハディド案の高さは約70メートルでしたが僕たちの設計では50メートル以下に抑えることができた。明治神宮外苑の杜(もり)にあるから低さに価値があるし、木を使うとしっくりくる。僕が学生の頃、外苑にあるコートでテニスをしたり、徹夜明けは前の国立競技場の安いジムで汗を流したりしていた。僕にとって外苑は庭のようなもの。外苑っぽさを生かしたいですね。

     ――東京2020大会で注目することは?

     ◆マラソンです。自分の知っている道路をランナーが走ると、普段とは違う別の神聖な空間に思えてくるんですよ。競技コースになっている浅草・浅草寺の雷門の向かいに僕が設計した浅草文化観光センターがありますが、あの場所が生まれ変わる瞬間を見てみたいですね。20世紀的な、車に支配された道路はもうそろそろ終わると思いますよ。道路は人間が歩く空間であって、現在のようなアスファルトのさみしい空間ではなかったはず。マラソン選手が走ることによって、生活感のある未来の姿が見えてくるのではないですかね。

     ――東京都内では競技施設やホテルなどの建設工事が進みますが、「箱モノ」には批判もあります。東京2020大会後の街づくりはどうあるべきですか。

     ◆会場の使途をスポーツに限定せずに、みんなが集まれる場所にしたらいいと思います。前の国立競技場の外観はコンクリートの塊があるようでしたから。新国立競技場には「空の杜」という1周約850メートルの屋上空間に散歩道を造る。大会後も楽しめることを見すえた設計にしているので、みんなが大会の記憶を思い出しながら歩いて楽しんでほしい。また、今は高度成長が終わって少子高齢化の時代だけれど、いまだに建物をたくさん造って静かな感じはしない。大会後は世の中が一段と静かになって、みんなが「静かな幸せ」を発見できたらいいですね。

     ――静かな幸せとは?

     ◆例えば、安く旅する幸せとか。僕は学生の頃、関西や九州など地方都市を巡り、やたらと面白い建築を歩いて回るのが楽しくてしょうがなかった。安い宿を転々とし、時には学校に泊めてもらった。その原点はサハラ砂漠を野宿しながら歩く旅。一番きつかったけれど一番楽しい旅だった。こうした中に静かな幸せを見いだすことができたらいいですね。

     スポーツでも何でも、体を動かすことが重要です。スポーツには一国の経済を支える力がある。20世紀は車の時代で、人間が体を使わずにいかに移動できるか、便利に暮らせるかを追求する時代だった。それが人間の体をダメ(不健康)にした。21世紀はもう少し体を動かすよう見直す時代になればいいですね。

     ――最後に、今後の隈さんの目標を教えてください。

     ◆東大ももうすぐ退職(20年3月予定)だけれど、今までの経験を若い人たちに教え続けたい。モデルは、旧帝国ホテルを設計した米国の建築家、フランク・ロイド・ライトの居宅兼仕事場兼学校である「タリアセン」です。

    建築家の隈研吾さん=東京都港区で2019年6月15日、北山夏帆撮影

     ――「隈研吾学校」の開校ですか。

     ◆そうそう。規模は小さくても学生と教え、教えられる関係を築きたいですね。

    くま・けんご

     1954年、横浜市生まれ。東大工学部建築学科卒、同大学院修了後、米コロンビア大客員研究員を経て独立。09年から東大教授。10年に「根津美術館」で毎日芸術賞を受賞。その他の代表作は「サントリー美術館」「豊島区庁舎」「アオーレ長岡」など。ブザンソン芸術文化センター(フランス)、V&A Dundee(イギリス)などの海外作品も多い。2020年東京オリンピック・パラリンピックの主会場となる新国立競技場のデザインに携わる。主著に「負ける建築」「建築家、走る」。

    柳沢亮

    毎日新聞オリンピック・パラリンピック室員。1990年埼玉県生まれ。2013年入社後、新潟支局、東京経済部を経て19年5月から現職。高校時代は野球部に所属し、本塁打数は通算1本(非公式)。草野球の試合にいつ呼ばれてもいいように定期的にグラブを磨いているが、いまだ出番はない。最近の楽しみは、相思相愛の長男と近所の児童館で遊ぶこと。