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東京へ ともに歩む

毎日新聞

第3回国際女子競技大会を終えて帰国した人見絹枝(右から2人目)と(左から)中西みちさん、渡辺すみ子さん、浜崎千代さん、村岡美枝さん、本城ハツさん=1930年11月6日撮影

オリパラこぼれ話

人見絹枝の生涯㊦ 粉骨砕身、日本の女子スポーツ発展に奔走

 第9回アムステルダム五輪大会(1928年)の陸上女子800メートルで死闘の末、銀メダルを獲得して日本人女性初のメダリストになった人見絹枝は、帰国後も多忙な日々を送っていた。

 自伝「人見絹枝―炎のスプリンター」(日本図書センター)によると、10月に帰国してその年はほとんど落ち着くことができないほど出張が続いた。青森、盛岡、仙台、福島や関東地方などで講演会が約1カ月にわたり開かれた。会場の女学校などでは銀メダルを決めた際の歓喜の様子のほか、自信を持って挑んだ100メートルが準決勝で敗退し宿舎で大泣きした出来事などを話した。壇上ではその時がよみがえり涙ぐみながら講演したこともあったという。

 人見は大阪毎日新聞社(毎日新聞社の前身)に19歳で入社した際「世の女子体育事業に尽くしたい」と抱負を語り、今後の女子スポーツ界発展の担い手として期待されていた。自伝には大会でヨーロッパ遠征した際に他国のスポーツ事情を調べた内容を記している。

 ロシアではモスクワだけでも400メートルトラックを持つスタジアムが15カ所も存在する。モスクワの体育機関の所長に体育の目的を尋ねると「生まれてから死ぬまで一刻も中断してはならない。女子は将来立派な子供を産むために鍛えるのです」。人見は体育の必要性を改めて学んだ。

 英国では国民のスポーツへの関心の高さを目の当たりにした。ロンドン市内のグラウンドでは夕方になると老人や子ども、女子クラブの人たちがウオーキングやランニングに汗を流す。会社帰りの人や犬を散歩させる老人、子連れの母親らが取り囲んで熱心に見物する姿が多く見られた。「燃え尽きたランナー人見絹枝の生涯」(大和書房)によると、ロンドンの女子スポーツクラブにはコーチとマネジャーがおり、メンバーは全員が職業を持つ女性だった。このような環境があり、五輪で活躍する選手が25、26歳という理由が分かった。

 日本の女性は女学校卒業前後にスポーツをやめて家庭に入ってしまうので世界の舞台に立つ選手が育たない。日本国民に女子スポーツに対する認識を改めさせねばならない。スポーツをすることがいかに大切であるか、意識の改革を訴えることだと自分に言い聞かせたという。講演会では「すべての女性がスポーツをやってこそ国民全体が健康になれるのです」と女子スポーツの重要性を説いた(「朝やけのランナー」=PHP研究所)。

 30年1月には日本女子スポーツ連盟がチェコスロバキア(現チェコ)のプラハで開催される第3回国際女子競技大会に6選手の派遣を決めた。人見のほか、女学生の本城ハツ、中西みち、村岡美枝、渡辺すみ子、浜崎千代である。一方で派遣費用の工面に連盟役員らは頭を悩ませたが、なんとか寄付金や募金などで手当てした。競技大会で人見は走り幅跳びで優勝するなど前回同様複数競技に出場し、後輩のレースにも付きそった。チームで挑んだ400メートルリレーは4位となり、国別獲得得点13点で18カ国中第4位。うち12点は人見の個人別獲得得点で2位の成績だった。「全力を出し切った。これが私のベスト」。人見は満足感に浸っていた。朝やけのランナーの書籍にその時の思いが紹介されている。

 しかし、帰国の途中に受け取った知人や友人の手紙に大きなショックを受ける。「もっともっと期待していた」「出発の時大きな事を言って出かけたのに。帰ってくる時はベールをかぶっていらっしゃい」などと書かれ、人見は最後まで読み切ることができなかった。「あれだけやっても世間の人々はまだ満足してくれなかったのか」。涙が次々にあふれた(自伝より)。

人見絹枝の死亡を伝える1931年8月3日の大阪毎日新聞

 帰国後はまたも講演会のスケジュールがたくさん入っていた。人見は大会中に風邪をぶり返しせきが止まらなかった。そして帰国の長い船旅で症状が悪化してしまう。しかし、募金をしてくれた女学校への恩返しや使命感から無理をして全国を回った。

 人見の体は限界に達していた。31年4月に吐血して入院。肺を患い高熱が続いた。病床では競技同様に病魔と必死に闘い、意識がもうろうとする中、枕元のノートに「息も脈も熱も高し。されど、わが治療の意気さらに高し」と書きつづった。みんなの回復の願いも届かず8月2日に乾酪(かんらく)性肺炎のため24歳の若さで生涯を閉じた。この日は3年前のアムステルダム五輪大会で銀メダルを獲得した日でもあった。

 葬儀の弔辞でプラハの国際女子競技大会に人見とともに出場した後輩の村岡さんは「お姉さんは女子スポーツに貢献されました。その大きな足跡はけっして消えることがないでしょう。私たちは非力ですが、遺志をつぐよう全力を尽くして頑張るつもりです」(「朝やけのランナー」より)。村岡さんと同じく競技大会に出場した渡辺さん、中西さんの3人は翌年の第10回ロサンゼルス五輪大会の400メートルリレーに出場し5位の入賞を果たした。人見への最高の供養になった。間もなく8月の命日を迎える。【関根浩一】

関根浩一

東京本社オリンピック・パラリンピック室委員。1985年入社。東京本社事業本部、千葉支局、成田支局、情報編成総センターなどを経て、2017年4月からオリンピック・パラリンピック室。サッカー観戦が趣味でこれまで多くの日本代表戦に足を運んでいる。最近はスコッチのソーダ割りを飲みながらボサノバを聴くのが楽しみ。