- ツイート
- みんなのツイートを見る
- シェア
- ブックマーク
- 保存
- メール
- リンク
- 印刷
6年前の2013年7月、私は錦糸公園(東京都墨田区)で、星野弘さんの体験を聞いていた。真夏の太陽の下、子どもたちが駆け回る。談笑するカップル、休憩する高齢者……。戦争の面影は全くない。星野さんは淡々と話した。「ああ。あの大きな木には見覚えがありますよ。そばに大きな穴があってね。黒こげの遺体を埋めたんですよ」
あまり知られていないが、当時の東京都は軍部と相談して、空襲による被害者数を予想していた。その数2万人。1回の空襲ではなく、戦争全体の予想数がそれだった。ヨーロッパ戦線における、連合国軍のドイツ爆撃による被害などを基に想定したものだ。
しかし、1945年3月10日の東京大空襲による被害者は、たった一晩でその想定の5倍にも及んだ。このことだけでなく、大日本帝国の戦争に関する見通しは絶望的に甘かった。始めた戦争をどうやってやめるかという、まともな終戦構想さえなかった。
中学生だった星野さんも、東京大空襲に遭った。隅田川両岸を中心に街が焼け野原になった。黒焦げになった遺体がそこらじゅうに横たわっていた。前回見たように、国民の士気低下を恐れた軍などは遺体の収容、仮埋葬を急いだ。子どもや囚人まで動員された。
星野さんは3月下旬ごろ、同級生ら60人とともに従事した。
現在の東京スカイツリーを見上げる川に、たくさんの遺体が浮いていた。酸欠のためか、おぼれたのか。遺体は焼けておらず「生きているようだった。本当に怖かった」。浮かんでいる女性の遺体を大人が引き揚げると「子どもが髪の毛にしがみついていました。2歳くらいの。親子だったのでしょう」。
路上や防空壕(ごう)などからも遺体を収容した。あちこちに落ちていたトタンを拾い、太い針金を通して「担架」を作り、学友と遺体を運んだ。ひどく焼けた遺体からは首や足が落ちた。「すべては拾えませんでした」。合計30体近くの遺体を運んだ。PTSD(心的外傷後ストレス障害)という概念がない時代とはいえ、異常そのものだ。異常が日常になるのが戦争である、という教訓でもある。
星野さんの凄惨(せいさん)な体験は、長じてから大空襲を語り継ぐエネルギーとなった。97年、仲間とともにと犠牲者の氏名を記録する運動を始めた。「せめて名前だけでも」という願いからだった。さらにかつての仮埋葬地に、それを知らせる表示板の設置を行政に求める運動を進めた。
また、07年、空襲被害者や遺族らが政府に補償と謝罪を求めて東京地裁に提訴した集団訴訟では原告団長を務めた。同地裁、東京高裁とも敗れ、13年、最高裁で敗訴が確定した。しかし原告132人の運動は、空襲の被害が戦後70年近くたってなお多数の人々を苦しめていること、国が「雇用関係がなかった」という理由をたてに民間人への補償を拒んでいることなどを広く世の中に伝えた。
18年6月17日、星野さんは87歳で亡くなった。星野さんたちが埋めた遺体はどうなったのだろうか。【栗原俊雄】
次回8月22日は「仮埋葬地を歩く」を1週休み、「巣鴨プリズン」を取り上げます。「仮埋葬地を歩く」は同月29日から再開します。