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加藤浩子の「街歩き、オペラ歩き」

「演奏会形式」によるオペラ公演で新しい道を開く、夏の音楽祭の名門〜ルツェルン音楽祭

バルトリとクルレンツィスによる特別コンサートのカーテンコール=9月13日 (C)Peter fischli / LUCERNE FESTIVAL

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 ヨーロッパを中心によく旅をしているが、天候に恵まれて資金に余裕があれば、スイスほど素晴らしい滞在先はないと思っている。とにかく風景が美しいし、観光立国だからどこへいっても整備が行き届いている。有名な観光地でなくとも、ハイキングコースなどが充実していて楽しめるのだ。山を満喫するため、国中に網の目のようにはりめぐらされた登山電車やロープウェイ、ケーブルカーの類いの充実ぶりには目を見張らされるが、同時に、厳しい自然を観光資源としてここまで育て上げたスイス人の苦労と先見の明に頭の下がる思いにかられてしまう。かつては男なら傭兵(ようへい)として国外に稼ぎに出なければならなかった貧乏国が、今や世界有数の富裕国なのだ。もちろん観光だけでここまで来たわけではないが(スイスの銀行や、時計などの精密機械産業は有名だ)、国をあげての観光化が成功するまでには、膨大な時間と、困難な工事をやりとげる血の汗が必要だったことだろう。

ルツェルンのシンボル、カペル橋とピラトゥス山

 スイス中央部に位置するルツェルンは、風光明媚(めいび)な街が多いスイスの街々のなかでも際立って美しい街である。山々の間を縫うように広がる「フィアヴァルトシュテッター湖」に面し、街からはスイスの名峰に数えられるピラトゥスやリギがよく見える。ピラトゥスにもリギにもケーブルカーやロープウェイで簡単に登ることができ、手軽に絶景を満喫できるところもさすがスイスである。14世紀に建造され、ルツェルンのシンボルとなっているカペル橋、フレスコ画に彩られた歴史的建築物がひしめく旧市街の散策もたのしい。

 街の東側にあるトリープシェンと呼ばれる小高い丘の上には、リヒャルト・ワーグナーが6年ほど暮らしたヴィラが建っている。ワーグナーはここで「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を完成させ、生涯の伴侶コジマとの家庭生活を始めた。コジマの誕生日にささげられた「ジークフリート牧歌」は、このヴィラで初演されている。

ルツェルン郊外にある、ワーグナーが住んだヴィラ

 ルツェルンの夏の風物詩であるルツェルン音楽祭は、このワーグナー・ヴィラで産声をあげた音楽祭である。オーストリアのザルツブルク音楽祭に対抗する音楽祭として構想されたルツェルン音楽祭は、1938年、ヴィラの前の庭園で第1回のガラ・コンサートを行った。その後「コングレス・センター」をメイン会場に、トスカニーニやフリッツ・ブッシュに始まり、カラヤンやフルトヴェングラーなど著名な指揮者が客演を続け、ヨーロッパの夏の音楽祭の代表格へと成長する。オーケストラ中心の音楽祭であることがルツェルン音楽祭の大きな特徴で、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ゲヴァントハウス管弦楽団といった一流オーケストラが毎年のように出演している。

ワーグナーとコジマが結婚式をあげたマタイ教会

 現在の総裁は、ミヒャエル・ヘフリガー氏。スイス出身の名テノール、エルンスト・ヘフリガーを父に持ち、ジュリアード音楽院でヴァイオリンを学んだが、同時にビジネススクールで経営学のMBAも取得した。1999年に総裁に就任以来、クラウディオ・アバドとともにルツェルン祝祭管弦楽団を、ピエール・ブーレーズとともにルツェルン・アカデミーを設立するなどさまざまな新機軸を打ち出し、音楽祭の国際的認知度を高めた。ルツェルン祝祭管弦楽団は現在の音楽祭の顔であり、アバドやシャイーとともに来日も果たしている。現代音楽にも力を入れており、「コンポーザー・イン・レジデンス」の制度も導入した。

カルチャー・コングレス・ホール

 メイン会場の「コングレス・センター」は1995年から2000年にかけて新築され、「ルツェルン・カルチャー・コングレス・センター」として生まれ変わった。コンサートホールに加え、美術館や会議場も入る複合文化施設である。中央駅の横に立地しているというと雑然とした環境を想像してしまうが、そこはルツェルン、湖に臨んで建つモダンで洗練された建物だ(ジャン・ヌーヴェル設計)。湖に面したテラスには付属のカフェレストランの座席が点在し、リゾート施設のよう。パーティもしょっちゅう行われていて、街に溶け込んでいる施設だと感じる。正面や左右の壁はガラス張りになっており、ホールのホワイエからは湖やリギ山の絶景が望める。まさに夢のような環境で、一流の音楽が体験できるのだ。人口およそ8万人の街に、スイスを中心に各国からおよそ10万人が訪れるのも理解できる。

 オペラ好きの筆者にとってのルツェルン音楽祭の魅力は、何年かに一度企画される演奏会形式によるオペラ公演だ。前回この音楽祭を訪れたのは、9年前の2010年。お目当てはエサ=ペッカ・サロネン指揮の「トリスタンとイゾルデ」だった。ビル・ヴィオラによるビデオ演出が話題だったが、筆者にはサロネンの鮮烈な指揮と、イゾルデを歌ったヴィオレッタ・ウルマーナの情感豊かな歌唱がいちばんの収穫だった。

カルチャー・コングレス・センター内のテラスからの眺め

 9年ぶりのルツェルン音楽祭で堪能したのは、クラシック音楽界の革命児として各地で旋風を巻き起こしている指揮者のテオドール・クルレンツィスと、彼が創設したピリオド楽器のオーケストラであるムジカエテルナによる、ダ・ポンテの台本によるモーツァルトの3作のオペラ「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」(演奏会形式)である。さらにうれしいことに、3作の上演の間には現代最高のメッゾソプラノ歌手であるチェチーリア・バルトリが出演する、モーツァルト・プログラムのコンサートも置かれた。クルレンツィスとバルトリの共演など、日本はおろか他の国でもそうそうは望めない。プログラムが発表された時から、ぜひ、と狙っていた公演だった。

「ドン・ジョヴァンニ」より、クルレンツィスとムジカエテルナ、ソリストたち(C)Peter fischli / LUCERNE FESTIVAL

 果たして、公演は素晴らしいものだった。何より震撼(しんかん)させられたのは、オペラ上演の新しい潮流の場に居合わせたと感じたことである。演奏会形式といっても、オーケストラの前に正装した歌手が立って歌う従来のスタイルとはまったく次元が異なり、歌手たちは舞台の前後左右、時に客席の通路やオーケストラのなかに入り込んで歌い演じる。指揮するクルレンツィスは時に指揮台を降りて歌手たちやオーケストラ奏者に向き合い、細かく指示を出す。彼らが音楽を創り出す過程を逐一目撃できるのは、これまで経験したことがないスリリングな体験だった。出てくる音も一音一音まで細かく表情付けられ、デュナーミクや強弱、即興も大胆。「ドン・ジョヴァンニ」のラストでは、地獄落ちの場面で一旦指揮者とソリストが全員舞台袖に引っ込み、そのままカーテンコールに突入。これで終わりかと思わせられたが、最後の最後で騎士長役の歌手が「これからウィーン版を歌う」と宣言して終曲の六重唱が歌われた。あざといともいえるやり方だが、モーツァルトの時代は今よりはるかに演奏の自由度が高かったのだから、これもありかもしれない、と思わされてしまうのは、彼らの演奏にそれだけの説得力があったからだろう。

 興奮さめやらぬままホールを出ると、満月が広げる銀色のヴェールが夜の湖に降りていた。湖をわたる夜風が、ルツェルンにいることを教えてくれる。スイスはやはり、とびきりの滞在先である。

  ◇    ◇    ◇

音楽祭公式サイト

https://www.lucernefestival.ch/de/

筆者プロフィル

 加藤 浩子(かとう・ひろこ) 音楽物書き。慶応義塾大学、同大学院修了(音楽学専攻)。大学院在学中、オーストリア政府給費留学生としてインスブルック大学留学。バッハとイタリア・オペラをテーマに、執筆、講演、オペラ&音楽ツアーの企画同行など多彩に活動。著書に「今夜はオペラ!」「ようこそオペラ!」「オペラ 愛の名曲20選+4」「名曲を生みだした女性たち クラシック 愛の名曲20選」「モーツァルト 愛の名曲20選」(春秋社)、「バッハへの旅」「黄金の翼=ジュゼッペ・ヴェルディ」(東京書籍)、「人生の午後に生きがいを奏でる家」「さわりで覚えるオペラの名曲20選」「さわりで覚えるバッハの名曲25選」(中経出版)、「ヴェルディ」「オペラでわかるヨーロッパ史」「音楽で楽しむ名画」(平凡社新書)。最新刊は「バッハ」(平凡社新書)。

公式HP

http://www.casa-hiroko.com/

ブログ「加藤浩子のLa bella vita(美しき人生)」

https://plaza.rakuten.co.jp/casahiroko/

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