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台湾「霧社事件」を歩く

(上)最大の抗日蜂起 頭目モーナ・ルーダオの彫像は写真スポットに

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抗日蜂起の「霧社事件」を率いたモーナ・ルーダオが生まれたマヘボ社跡がある廬山温泉。水害などで今はほぼ廃虚になっている=台湾で2019年9月23日、高橋咲子撮影
抗日蜂起の「霧社事件」を率いたモーナ・ルーダオが生まれたマヘボ社跡がある廬山温泉。水害などで今はほぼ廃虚になっている=台湾で2019年9月23日、高橋咲子撮影

 台湾で大ヒットした映画「セデック・バレ」。日本統治下の台湾で起きた原住民による最大の抗日蜂起、霧社(むしゃ)事件について、セデック族のモーナ・ルーダオを主人公に全編セデック語で描き、日本でも大きな話題を呼んだ。約90年前に起きた事件のゆかりの地を、「抗日霧社事件をめぐる人々」(日本機関紙出版センター)などの著書がある台湾人郷土史家の鄧相揚さん(68)と共に歩いた。【高橋咲子】

 1930年10月27日未明、台湾中部の町、霧社。セデック族が統治の拠点である駐在所を襲撃し、事件は幕を開けた。日本人は子供を含む134人が死去。これに対し、日本側は兵士を大量投入し、空襲や山砲などで反撃した。過酷な労役や非人道的な態度が蜂起の背景にあったと言われる。

 事件の特徴は大きく二つある。一つは、討伐のため同族同士を殺し合わせたこと、もう一つは、参加した原住民を事件後も徹底的に追い詰めたことだ。

集団自殺した家族21人が眠る山

 台湾中部の都市、台中からバスで約1時間。台湾本土の中心にある埔里(ほり)で、鄧さんと待ち合わせた。霧社の南西24キロにある街。鄧さんは医療検査技師として、生き残った人々と親しく付き合い、長年フィールドワークを続けてきた郷土史家だ。

 1000メートル級の尾根を縫うように車は進む。狭くてガタガタの急斜面に身を縮めながら、たどり着いた。「ここが花岡山です」と鄧さんが指をさす。段々畑のある谷の向こうに、小さな山があった。こんもりと生い茂った木々の中で、日本の教育を受けた花岡一郎(ダッキス・ノービン)、花岡二郎(ダッキス・ナウイ)の家族21人が集団自殺したスクレダン山のことだ。

 当時、日本は見込んだ原住民の子供に日本人子弟のための学校で教育を受けさせた。2人は兄弟ではないが、同じ名字の日本名を与えられ、同様に教育を受けた花子(オビン・ナウイ)と初子(オビン・タダオ)とそれぞれ結婚させられた。

 鄧さんによると、教育は純粋な学力向上だけが主眼ではなかった。08年に制定された原住民の教育について記した文書で「目的は、我々の風俗習慣に習熟させることで、学習は急務ではない」(意訳)としている。日本化によって統治しやすい人材を育てるためだった。

 一郎、二郎は蜂起には参加せず、結局死を選んだ。祖霊の信仰に基づいたセデックのおきて「ガヤ」と、恩義を受けた日本への義理との板挟みになったと鄧さんは指摘する。

 一郎家族は割腹自殺、二郎らは木で首をつるという凄絶(せいぜつ)な最期だった。近くでは、ここで彼らが死んだことを知っているという女性が忙しく畑の手入れをしていた。ギラギラとした光が降り注いでいたかと思うと、さっとかき曇り、冷たい風が吹く。山の天気だ。

 「今もここに21人の遺骸がある」。鄧さんは二郎の忘れ形見、故・高光華さんや、事件の生き残りの末裔(まつえい)であるタクン・ワリス(…

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