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台湾「霧社事件」を歩く

(下)セデック族を徹底的に追い詰めた日本

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霧社事件の生存者が強制移住させられた川中島(現・清流)。かつて川中島祠だった場所は、戦後「霧社事件 余生紀念碑」と改められた。この日、紀念碑の上方の森には無数のチョウが舞っていた=台湾で2019年9月24日、高橋咲子撮影
霧社事件の生存者が強制移住させられた川中島(現・清流)。かつて川中島祠だった場所は、戦後「霧社事件 余生紀念碑」と改められた。この日、紀念碑の上方の森には無数のチョウが舞っていた=台湾で2019年9月24日、高橋咲子撮影

 <台湾統治下で起きた最大の抗日蜂起「霧社事件」は、台湾中部の町、霧社で1930年10月27日に起きた。事件ゆかりの地を9月下旬、郷土史家の鄧相揚さん(68)と歩いた>

事件1年後には、人口が事件前の2割以下に

 セデック族の人口は激減した。

 霧社事件を受けて、日本側は以前からの緊張関係を利用し、同じセデック系原住民を「味方蕃(ばん)」(味方の蕃人)として投入。原住民同士で闘わせた。通常は禁止していた出草(しゅっそう)=首狩り=を解除し、蜂起に加わった男性だけでなく、本来は出草の対象にならない女性や子供まで懸賞金をかけて奨励した。

 「抗日霧社事件をめぐる人々」(日本機関紙出版センター)などの著書がある鄧さんによると、セデック族で蜂起した側の人口は事件前、1236人だったが、戦死や自殺で644人が死んだ。

 事件が終われば、平穏が訪れたわけではなかった。翌年の31年4月、日本は味方蕃をそそのかし、生き残りを隔離した収容所を襲わせ(第二霧社事件)、214人が死亡。翌月282人が、霧社から車で1時間ほどの川中島(現・清流)に強制移住させられた。同年10月には帰順式と銘打って住民を集めて、事件関係者と認定した23人を逮捕。全員が監禁されたまま、32年までに死亡した。さらに、マラリアによる病死や、絶望感による自死などで、強制移住1年後の人口はとうとう210人になった。鄧さんは言う。「セデック族は絶滅の危機に瀕(ひん)していた」

 鄧さんは1日かけて霧社周辺を車で案内してくれた。ここは山岳地帯。動物の背骨のような峰が連なる。道路沿いに集落が現れては消え、緑の景色が続く。

 中国・清朝時代、文化が及ばない「化外(けがい)の地」として半ば放置されていた土地だった。行き着くのも難しい山の深くに入り込んで、まったく違う文化を持つ人々を日本化しようとし、反抗すれば徹底的に追い詰めた。「よく、こんなところまで」とため息が出る。帝国主義列強に遅れて仲間入りした日本。この国を駆り立てたものは何だったのだろう。

1990年代以降、原住民の視点で、事件の研究が進む

 鄧さんは、台湾中部の埔里(ほり)で生まれ、今も住んでいる。市街地のロータリーに面した自宅を訪れると、書斎は収集した資料で埋もれていた。

 「霧社事件については、父や年寄り世代から少しずつ話を聞いていた」と話す。医療検査技師として、霧社事件の生き残りの人々と接するうち、もっと知りたくなったという。「聞いた者の責任として本を書き、調査を続けました」と振り返る。

 著書は約30冊、すべて原住民関連。さまざまな民族が暮らす、ここ埔里の街がすべての出発点だ。子供の教育のために約25年前から妻子はニュージーランドで暮らす。鄧さんはフィールドワークのために埔里に残り、海外と行き来している。妻の高美碧さん(65)は「夫は愚者で賢者です」と鄧さんを見つめる。一つのことをこつこつ続け、やり遂げることができたのだ、とほほえむ。

 事件の研究は、長らく偏ったものだった。当時の記録が日本語だったことに加え、同族同士殺し合ったことが大きな傷となり、生き残った人も口をつぐんだ。日本人でもなく、漢民族でもなく、原住民の視点での研究が進んだのは90年代以降。鄧さんの著書も大きく貢献した。生存者の末裔(まつえい)として自分たちの言語で聞き取りをするタクン・ワリスさん(…

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