83歳の男性が人生の最後を「隔離の地」で過ごす理由とは

群馬県草津町の標高約1100メートルの尾根に位置する国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」。約73ヘクタールの敷地に、国による過去の強制隔離政策で入所させられたハンセン病の元患者たちが暮らしている。10月上旬、ここに一人の男性が移住した。若い頃に楽泉園を退所して社会復帰し、会社に勤めながら東京の下町で約50年暮らしてきた83歳の元患者だ。なぜ住み慣れた地域を離れ、隔離された場所にある療養所で人生の最終盤を過ごそうと決めたのか。かつて楽泉園に通い、ハンセン病問題を取材した記者は、詳しい理由を知りたいと思い、再入所に同行した。【塩田彩/統合デジタル取材センター】
5年半を過ごした療養所へ
空には雲が低く垂れこめていた。「今日はだめだな、見えねえな」。深沢一郎さん(仮名、83歳)が眺める先には、山頂が白いもやで覆われた草津白根山の稜線(りょうせん)が続く。この日深沢さんは、幼い頃と10~20代の計5年半を過ごした栗生楽泉園に引っ越してきた。
「前はここ一帯全部に家が建ってたんだよ」。到着してまもなく、深沢さんは遠路の疲れも見せず、同行しためいの昭子さん(仮名、60歳)と記者に園を案内してくれた。広い園内に人影はない。目の不自由な入園者を誘導するための電子メロディーが、どこからともなく聞こえてくる。
ハンセン病は「らい菌」による慢性感染症。感染力は弱く、戦後は化学療法で完治するようになったが、国は1996年のらい予防法廃止まで約90年間も隔離政策を続けた。熊本地裁がこの政策を違憲と断じ、国の責任を認めた判決が確定したのは2001年のことだ。【※1】
栗生楽泉園には最盛期の45年に約1300人の入園者がいたが、今年10月10日現在で60人にまで減った。全国13の国立療養所の入園者の平均年齢は86歳。亡くなる人や介護を受けるために「不自由者棟」に移る人も多く、使われていない部屋が目立つ。深沢さんが入居する長屋も、3部屋のうち2部屋は空き室だ。
新しい畳のにおいがする二間続きの新居では、引っ越し業者が段ボール箱を積み上げていた。木製の置物、現像していないカメラのフィルム、はんだ付けした電子基板。「おじさん、整理せずに全部持ってきたね」。昭子さんがあきれた顔で言う。「時間はたっぷりあるんだから。ゆっくり片付けるよ」。深沢さんが答えた。
【※1 ハンセン病と強制隔離政策
ハンセン病は、手足の知覚がまひしたり変形したりすることがある病気。国は医学的根拠がないまま患者の隔離を始め、1931年制定の「癩(らい)予防法」(旧法)以降、徹底的な強制隔離を推進。旧法を引き継ぐ「らい予防法」が96年に廃止されるまで続けた。熊本地裁は2001年、1960年以降の隔離を違憲と断じ、差別を助長した国の責任を認めた。今年6月には元患者の家族が受けた被害への国の責任を認める熊本地裁判決が確定した。】
人生を断ち切る決心
深沢さんのことを記者が間接的に知ったのは今年6月。東京で知人に誘われて顔を出したハンセン病問題の小さな学習会で…
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