<1面からつづく>
被爆者のサーロー節子さん
カナダ在住の被爆者、サーロー節子さん(87)が、この世界から核兵器をなくすことを訴える人生の基本にしてきたのが「アクティビズム」(行動主義)という考え方です。子どもたちに向け、「平和を祈るだけではダメ。私は必ず行動に移す。行動に移しましょう」と力を込めます。
アメリカ軍は1945年8月6日に広島、同9日には長崎に原子爆弾を落としました。この年の年末時点の犠牲者は広島で約14万人、長崎で約7万4000人に上りました。その後も原爆の放射線は長年にわたって被爆者の体をむしばみ、たくさんの人々の命が失われました。
サーローさんは各地で証言をする時、広島女学院の原爆犠牲者351人の名前が書かれた横断幕を必ず持っていきます。「原爆の被害は74年前に起きた確かな事実で、絶対に二度とあってはいけない。私が被爆体験を通して学んだのは、一人一人の人間に尊厳があり、生きる権利があるということです」と言います。
2017年には国連で核兵器禁止条約が作られましたが、日本政府は条約作りに参加せず、署名も批准(国内で正式に認めること)もしていません。日本は世界で唯一の戦争被爆国ですが、アメリカが持つ核兵器に国の安全を頼っていて、アメリカの「核の傘」に入ってきました。日本政府の立場について、安倍晋三総理大臣は「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努める」と説明しています。
しかし、サーローさんはこの現状を「日本政府は橋渡しの役割を果たしているわけではなく、被爆者を裏切っています。大切な時、日本はいつもアメリカに追従しているのです」と批判します。日本政府は選挙を通して日本の人々の思いを代弁しているため、「市民が責任を持って政治家の行動を見張り、プレッシャー(圧力)をかけなければいけません。平和への祈りを実現するためには、政治的な行動が必要なのです」と語りました。
節目で胸を打つ言葉
サーロー節子さんは、核兵器禁止条約に関わる節目節目で、世界の人々の胸を打つ言葉を残してきました。この夏、中国新聞記者の金崎由美さんとともにまとめた自伝「光に向かって這っていけ」には、その場面が詳しく書かれています。
アメリカ・ニューヨークにある国連本部で核兵器禁止条約が採択された2017年7月7日、サーローさんは採択の瞬間を会議場で見届けました。採択の直後、発言の機会を得たサーローさんはこう述べました。
「72年前の1945年8月に命を奪われた一人一人には名前があり、誰かに愛されていたのです。私は今日の日を70年以上待ちわびていました。ついにその日が訪れたことは、歓喜にたえません。これは、核兵器の終わりの始まりです」
17年12月10日にノルウェー・オスロで行われたノーベル平和賞の授賞式では、被爆した時のエピソードを紹介。建物の下じきになったサーローさんは、だれかに左肩をつかまれ、「あのすきまから光が見えるだろう。急いではっていけ」という男性の声が聞こえました。これを引き合いに、サーローさんはスピーチを結びました。「あきらめるな。前に進め。光が見えるだろう。それに向かってはっていけ」。核兵器の廃絶をあきらめない気持ちを込めました。自伝のタイトルも、ここからとられました。