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アンコール

あの感動の調べをもう一度。注目公演の模様を鑑賞の達人がライブ感たっぷりに再現します。

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クリスティが指揮した至福の「メサイア」

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東条碩夫

ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリサン(C)大窪道治/提供:東京オペラシティ文化財団
ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリサン(C)大窪道治/提供:東京オペラシティ文化財団

 ウィリアム・クリスティといえば、パリ・オペラ座で彼が指揮したラモーの「優雅なインドの国々」の素晴らしいライブがDVDで出ているが、その最後のカーテンコールに彼が登場し、有名な「未開人の踊り」の曲に乗って、他の歌手たちと楽しそうに踊っている様子は、何ともほほ笑ましい光景であった。世の中に、カーテンコールの舞台上で踊り出す指揮者など、めったにいるものではなかろう。その映像に見られる彼のにこやかで、親しみやすく、明るくてあたたかい表情は、実に心温まるものを感じさせる。

 そして何よりも、そのあたたかさが、クリスティのつくり出す音楽を満たしている最大の特徴ではなかろうか。

 彼は16年前(2003年2月12日)にもこの東京オペラシティで、レザール・フロリサンを指揮してこのヘンデルの「メサイア」を演奏したことがある。その演奏のヒューマンな素晴らしさは、今なお記憶に新しい。私は感動のあまり、「これほど聴く者を至福の感覚に引き込んでくれる演奏に最近接したことはない」と当日の日記に書き込んだほどであった。

ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリサン(C)大窪道治/提供:東京オペラシティ文化財団
ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリサン(C)大窪道治/提供:東京オペラシティ文化財団

 そして今年の10月14日、彼とレザール・フロリサンは、また「メサイア」を演奏してくれた。その演奏のあたたかさは、今回も同様だった。しかし、音楽のスケール感という点では、今度の方が、いっそう勝っていたのではないだろうか。ヒロ・クロサキをリーダーとするオーケストラの楽員の数はおよそ30人、合唱も24人という小編成。だが、彼らが響かせる演奏は厚みのある豊麗なハーモニーにあふれて、その力感と質感は、70人か、いやそれ以上の大管弦楽と合唱にも匹敵していたように感じられたのである。

 たとえば第2部の最後を飾る有名な「ハレルヤ・コーラス」━━そこでの彼らの演奏には、まさに聴き手を興奮に巻き込む熱狂と、襟を正したくなるほどの崇高さがあふれていた。

 しかもクリスティはこの曲の終わり近く、音楽が高揚して「ハレルヤ!」の歌詞が繰り返されるくだりで、大きなアッチェルランドをかけていったのだが、それはかつてトマス・ビーチャムがLPに録音したグーセンス編曲版による「メサイア」での、あの激烈な演奏を思い出させるほどであった。クリスティも随分ドラマティックなことをやるな、と、改めて感じ入ったものである。

 また全曲の大詰め、「ラッパが鳴り響く」を経て、二重唱、合唱、ソプラノのアリアから最後の大合唱へと音楽が激しく力を増し、濃密さを加え、ついに陶酔的な高揚の「アーメン」に達するあたり、ヘンデルの音楽のつくりが見事なのは事実であるにしても、それが精神的なドラマの完結といったものを意識させ、キリスト教徒でない者にさえ法悦の極致ともいうべき圧倒的な感銘を与えるまでに高められていたのは、やはりクリスティの卓越した指揮のみがなし得た偉業ゆえではなかったろうかと思う。

 こういう「メサイア」の演奏は、まれにしか聴けないものだろう。

 なお、声楽ソリストは、ソプラノがキャスリーン・ワトソンとエマニュエル・デ・ネグリ、アルトがティム・ミード、テノールがジェームズ・ウェイ、バスがパドライク・ローワン。その出来には多少ムラがなかったわけでないが、演奏全体の素晴らしさの中では、取るに足らぬことである。

 客席は文字通り満杯であった。

 余談になるが、前述の「ハレルヤ」。

 昔はこの曲が始まると、すっと起立する人が少なからずいたものである。いや、起立するだけでなく、中には「この曲では立ち上がって聴くのが習わしなのだ、知らんのか」と言わんばかりにあたりをじろりと見まわす人もいたのである。

 筆者は、これが実に嫌だった。そもそも18世紀の英国での初演の際、この「ハレルヤ」のさなかに英国の王様が感動のあまり立ち上がったとかいう話があるからといって、日本のわれわれがそれに倣って立ち上がらなくてはいけない理由がどこにあるのだと反発し、したがって立ちたい人は勝手に立つがよろしい、別に反対はしない、ただし強制はされたくない━━と思っていたのだが、それでもなかなかそう割り切れる雰囲気ではなかったのである。

 しかし、そんな葛藤(?)に悩んでいては、「ハレルヤ」を感動的に味わうなどということが不可能になってしまう。それが面倒くさくて、一時期は「メサイア」の演奏会を敬して遠ざけていた、というのが正直なところだったのだ。

 幸か不幸か、今では王様ご起立の事件も真偽のほどが疑われるという説が登場している時代になったし、そんなことに頓着する聴衆も影を潜めたのだろう。起立する習慣も、最近ではほとんど見られなくなったようである。

 この日も、そんなことを気にせずに演奏に酔うことができた。ありがたいことではある。

ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリサン(C)大窪道治/提供:東京オペラシティ文化財団
ウィリアム・クリスティ&レザール・フロリサン(C)大窪道治/提供:東京オペラシティ文化財団

公演データ

【ウィリアム・クリスティ指揮 レザール・フロリサン演奏会】

10月14日15:00 東京オペラシティ コンサートホール

指揮:ウィリアム・クリスティ

ソプラノⅠ:キャスリーン・ワトソン

ソプラノⅡ:エマニュエル・デ・ネグリ

アルト:ティム・ミード

テノール:ジェームズ・ウェイ

バス:パドライク・ローワン

管弦楽&合唱:レザール・フロリサン

ヘンデル:オラトリオ「メサイア」HWV56

筆者プロフィル

 東条碩夫(とうじょう・ひろお) 音楽評論家。FM東京で「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」などを制作。現在は人気ブログ「東条碩夫のコンサート日記」のほか新聞・雑誌等に寄稿、TV、FM番組に出演。著書「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(音楽之友社刊)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)ほか。共著多数。

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